私たちネット民は、『言論の暴力』の影響力を、甘く見積もりすぎていたのかも知れない

『正論』や『美談』ですら相手によっては『暴力』として働いてしまう、『言論の暴力』の難しさ

私は、はてなブックマークにはネットリンチの側面があると思うし、ネットウォッチも悪趣味で暴力的な行為だと考えているから、そうした『言論の暴力』を受けてきた人間が恨みを募らせ、『力の暴力』で対抗してくるという可能性自体は理解できる。私たちネット民は、『言論の暴力』の影響力を、甘く見すぎていた。モニターの向こうには、生きた人間が実在する。


『言論の暴力』が難しいのは、解りやすい『力の暴力』と異なり、どんな言葉が相手にとって主観的な「暴力」として働くのか予測がつかないという点だ。

もう10年以上前の話になるが、はてな界隈で起こった「はしごたん騒動」を思い出す。出産の喜びを綴った多くの人間にとって心温まるエピソードが、はしごたんにとっては自分のトラウマを刺激する「暴力」だった。鮫に肉親を食い殺された人間にとって、映画『ジョーズ』はエンタメではなく、トラウマを刺激する「暴力映画」であり得る。性暴力の被害に遭われた方にとって、レイプ物の18禁コンテンツは「暴力」そのものだろう。そうした難しさが、『言論の暴力』には存在する。


私にも、どうしても許容できない価値観や、過去のトラウマを刺激されるような苦手な話題はある。

たとえば私は、10年来の忘れられない失恋女性の記憶を蘇らせるという意味で、いわゆる「光属性」の話題が苦手である。そうした記事が多くの人間にとっては「感動の美談」である事を知りつつ*1、それを書いた人間に怒りや憎しみや嫉妬の感情を抱いてしまうこともある。私が低能先生のような凶行に及ばないのは、これが、世間の常識から見て逆恨みと見なされるような「悪い」考えだと知っており、負の感情を抑制するだけの理性と社会性が、たまたま私に残されているからに過ぎない。

ネットで発信を行っている人間は、誰もがこうした「逆恨み」の対象とされてしまう可能性を秘めている。もちろん、私自身を含めて。こうして事件として表面化される所までいってしまうケースは、極めて稀だとしても。


膨大な不特定多数が閲覧するネット上で、届くべきではない相手に言葉が届いてしまうこと。そして、その言葉が相手にとって主観的な「暴力」として働いてしまうこと。

こうした「事故」を完全に防ぐことは、ほとんど不可能に近い。なにしろ「正論」も「美談」も、どんな言説が誰にとって「暴力」として働くのか、究極的にはまったく予想がつかないのだ*2。私が今日書いたこの記事も、ネット上の見知らぬ誰かにとって、私が思いもしなかった理由から、「暴力」となり得るのだろう。となれば私たちがネット上で暴力性を発揮しないためには、貝のように口を閉ざし、沈黙する以外に予防法はない。

しかしそれは、出来ない相談だろう。近代民主主義は、「議論」によって成立している。「言論の自由」は、民主主義の根幹だ。私たちは、そこから得られる心理的・経済的・享楽的メリットを享受しまくっている。であるからこそ、多少の暴力性には目をつむり、「言論の自由」は維持されているのだ。交通事故の致死率の高さに目をつむり、利便性を選んで車社会が維持されているのと同じように。だが。


私たちネット民は、『言論の暴力』の影響力を、甘く見積もりすぎていたのかも知れない。あらゆる言説が、それこそ「正論」や「美談」ですらが、届いた人間によっては主観的な「暴力」として働くことに。その「暴力」を受けた人間が、正常な理性と社会性を持ち合わせていない可能性が存在することに。

その事実を知った上でなお、発信するのか、しないのか。その判断と覚悟は、最終的には私たちネット民ひとりひとりの手に委ねられている*3

*1:「知っているからこそ」

*2:もちろん、罵倒・侮辱・煽りなど、暴力と解釈される可能性の高い言動はあるにしても、究極的には。

*3:少なくとも、今のところは