人は、未来に向かって生きる

中年は、不寛容になる

先日の記事に、こんな反応をいただきました。

とても、共感しました*1。特に、この部分。

自分が嫌だと感じない人ならOKくらいの心構えでいるのですが、その相手を嫌だなと感じる閾値がものすごく下がってしまっているような感じです。自分の生活習慣や価値観と合わない部分があるともう受け付けないみたいな感じです。


確かに若い頃はそういう違いは広く受け入れられていた気がします。むしろ新しい世界が開けるくらいの前向きな心持ちを持っていたかもしれません。それがきっと「若々しい感性」なんでしょう。どう呼ぶかはともかくとして、人との差異に対して許容範囲が年々狭くなっていることは痛感します。


社会に出ていろんな人と会って、絶対的にわかり合えない人が世の中には存在することを知りました。主に仕事関係であれば自分と価値観が異なる人とは適度な距離を置いてうまくやり過ごすことを覚えたわけですけれど、婚活のような場面ではそんな人とでも正面から向き合わなければいけません。ちゃんと話したらわかり合えるかも知れないけれど、表面的にちょっとこの人違いそうだなと感じた時点でそれ以上深入りするのを避けている気がします。

本当に、そのとおりです。いつの間に自分は、他者に対してこんなに不寛容な人間になってしまったのだろうと、僕も婚活で同じように痛感していました。

人は、中年になると、将来の可能性が狭まります。そして、社会の中で「もう自分とは生涯関係ない領域」が増えていきます。すると、人にしろモノにしろ趣味にしろ、「コレは自分の人生とは関係ない」と早い段階で感じ、見切りをつけ、追求するのをやめてしまう。「中年の好奇心の衰え」の裏には、こういった心理が働いているのだと、僕は思います*2


人は、未来に向かって生きる

人は、本質的に「未来」に向かって生きているのだと思います。まだ何者でもない若者には、自分の未来に多くの可能性が残されている。だから、「自分のために生きる」ことが強いモチベーションになり、好奇心旺盛になる。「あらゆる物事を貪欲に受け入れる」ことに、意味と可能性があるからです。

しかし、中年はそうではありません。仕事があり、人間関係があり、責任があり、30年以上かけて培ってきた価値観があり、そこに最適化された自分がいる。社会的にも肉体的にも、いまさらそれを捨てることも変えることも、簡単にはできない。

そうして人生の大枠がすでに決定されてしまっている中で、あえて新しいコトを始めたり、異なる価値観を受け入れるメリットは、どんどんと薄まっていく。「アイデンティティが固まる」といえば聞こえはよいですが、それは、不寛容と表裏一体なのでしょう。

だから中年は、自分のためではなく、子供のために生きるのです。子供がもつ未来の可能性に、希望を見出すのです。自らの人生に希望を見出すには、中年の未来は、もはや決定されすぎています。

未来に希望を持てない人生は、つらい。それは、自らの生きる意味の喪失、そのものだからです。

*1:この方の婚活関係記事、本当に面白くて必読です。婚活経験者共感必至。http://blog.traversist.com/?cat=19

*2:もちろん、生物学的な衰えもあるのでしょうが、それにプラスして。