望まない努力をすると、他人に同じ苦労を求めてやたら他人に厳しい人間になってしまうので、努力はできるだけしないほうがいい

努力しないとできないこと=向いていないこと


そのとおりだなぁ、と。

私は、努力なんてものは本当にどうしようもないときにだけ使う「最終手段」であり、やらずに済むなら可能な限り努力しないほうがいいと思っています。

努力しないと手が届かないことっていうのは、高望みなんですよ。そういうことは、一時的に手に入ったりなんとかなったとしても、無理してやっていることだから長続きしない。必死に努力して手に入れた地位や環境を維持するために、さらに無理な努力を重ねるハメになってしまう。要は「向いていない」ということです。

あと、努力していると、とくに嫌々努力していると、人間、努力しない他人に対して無駄に厳しくなるじゃないですか。日本人って努力大好き人間が多いと思うんですけど、みんながもう少し努力することを止めれば、日本はもっと穏やかで平和な社会になるんじゃないかと、結構真面目に思ったりもしています。

ただ、「努力しないで済む場所に行くための努力」は相当した

私がいま就いている仕事はとても自分に向いていると思える「天職」なので、幸いにもあまり努力しないで済む人生を歩めているのですが、ただ、この「天職に就くための努力」は、若いころに相当したつもりです。

学生時代の私は、人10倍くらいコミュニケーションが苦手で、学校には友達のひとりもおらず、修学旅行の班分けで孤立し、体育の時間は教師にパートナーをやってもらい、休み時間は教室の空気に耐えられず図書館で本を読んでいるという、典型的なコミュ障でした。

そんな人生を歩んでいると、早いうちに解っちゃうんですよね。自分は、他の人間と同じような「普通の人生」を歩むことはできないな、と。コミュ障な自分でもなんとかこなせる生き方を考えないと人生詰むな、と。

そういう止むに止まれぬ必要性があったので、学生時代の私は「自分に向いている職業は何か」「それを実現するためにはどうすればいいか」を必死に考え、そのための学校へ行き、周囲の人間が遊びまくる中で死ぬほど勉強しまくりました。「自分にはこの道しか残されていない」と本気で考えていたので、それはもう必死です。


「コミュ障」という欠落があったからこそ、それを埋めるために自分の適性について普通の人間よりも深く考える必要に迫られたわけですが、そのおかげで「天職」に巡り会えたわけですから、見方によってはラッキーだったのかもしれません。


ただ、私自身がそういう「努力」を経ていまの地位を得た人間であるため、先の記事のはてブにある「そんな『天職』に就けるのは一握りの人間だけ」のような意見を見ると、


「若いとき自分の適性とかなんにも考えず、努力もせず流されるまま生きてきた人間が自己責任で当然の結果になってるだけなんじゃねーの?甘いこと言ってんな。俺は努力した。」


とゲス顔で上から目線したくなる醜い感性をもった人間に育ってしまったので、やっぱり努力はできるだけしないほうがいいです。できることなら私も、産まれながらのリア充としてさしたる齟齬もなく世間と同化し、自分の適性などなにも考えないお気楽な青春時代を過ごし、努力を根拠に他人のことを見下さずに済む「育ちのいい人間」になりたかったものだと思いますね。