↑の作品を読み、「これほどまでに強い愛情と執着心を感じるほど大切な存在を持つことは、幸福なことなのか不幸なことなのか」という、いささか作品と離れた感想が浮かんでしまった。
死かばね先生は、祖母を亡くして5年もの歳月を経たいまでも、祖母を喪った哀しみに囚われ続けているという。死かばね先生にとって、祖母がそれほどまでに大切な存在だったということだろう。
薄情に聞こえるかもしれないが、私は、家族を喪ってもこのような哀しみを感じないと思う。家族に対して、まったく愛情を感じていないからだ。実際、私の母親は若くしてガンで死去しているが、私はほとんど哀しみを感じることはなかった。
虐待を受けたとか、家族のことを憎んでいるとか、込み入った事情があるわけではない。ただ、私が育った家庭にはなんとなくお互いが距離を置き合う「家風」があり、家族に対して愛情が育まれる土壌がなかった。ただ、それだけのことだ。そのことが不幸なことだとは、べつだん思わない*1。
家族に対してはかくも冷淡な私だが、「大切な人を喪う哀しみ」については、理解できるつもりである。私は、初めてできた恋人と10年近く交際を続けた後別れたが、そのときのショックから鬱病になり、その後5年間、鬱から立ち直れなかったという過去をもっている。
あの時代のことは、本当に、なにも思い出したくない。本当に、辛い時代だった。ああなってしまったのも、すべては私が彼女のことを愛しすぎ、執着しすぎてしまったからだ。
喪ったとき、哀しみのあまり鬱病を発症してしまうほど大切な存在ができることは、はたして幸せなことなのだろうか?としばしば思う。大切な存在と共に過ごす時間。それは間違いなく幸せなものだと断言できる。そうした時間を共有できる存在ができたこと自体は、かけがえのない本当に幸せな体験だ。この点では、「持っている」人間は、「持っていない」人間よりも幸せだといえるだろう。
しかし、その存在を喪ったときの哀しみは、相手への愛情と執着の大きさに、幸せの大きさに比例する。そんな深い哀しみを背負わされることになるくらいなら、大切な存在など作らず、平穏な日々を過ごしていたほうがむしろ幸せだったということも、あるのではないだろうか?
幸せと不幸は、トータルで見れば、常にプラスマイナスゼロなのかも知れない。
家族との幸せな想い出を持ち、それゆえ家族を愛し、それゆえ家族を喪った深い哀しみに囚われる死かばね先生と、家族との幸せな記憶を持たず、家族を愛さず、それゆえ家族を喪ってもなにも感じずに済む私と、はたしてどちらが幸せなのだろう。そんなことを思った。
*1:弟だけは仲がよかったので、死なれたら哀しく感じるとは思う。