恋愛とは、異性の欲望を互いに満たし合う行為である

下心を否定したら、恋愛では何もできなくなってしまう

先日、30代素人童貞彼女いない歴=年齢というエリート非モテの方*1と飲みながら恋バナをする機会があり、「ああ、確かにこれはモテない」と思ったのですが。彼がモテない最大の原因は、「自分の中の異性に対する欲望(下心)を『悪いもの』と考えすぎる潔癖さ」にあるのではないかと思いました。


彼は、自分の下心に対する否定感が強すぎる。たとえば「気になる異性と距離を縮めるために、相手の趣味に興味をもってみる」という行動。これは彼にしてみれば、「相手への下心からの行動で、純粋にその趣味が好きなのではないからダメ」となってしまう。とにかく彼は、「下心から発生した行動はすべてダメ」という価値観を持っているように見受けられました。


なるほど、確かに露骨な下心は異性からも同性からも嫌われる、下品なものです。異性目当てに趣味を始めるということは不純な行動であり、本当にその趣味が好きでやっている人から見れば「なんだこいつは」という軽蔑の対象なのかもしれません。


しかし、恋愛の本質とはなにかと考えていくと、下心を否定したこの考え方では絶対に恋愛に辿り着けないことがわかります。なぜなら、恋愛とは結局のところ、「異性の下心(欲望)*2を互いに満たし合う行為」だからです。私はおっさんなのでこういうこと言うとミスチルが出てくるんですが、恋なんていわばエゴとエゴのシーソーゲーム、イエーイエーイエーなわけです。

そして、「相手の下心に応えようとすること」は、たとえそれが自らの下心から発生していていたとしても決して恥じるようなことではなく、相手のニーズに応える「サービス精神」なのです。

たとえば、「異性にモテるためにファッションや外見を磨くこと」。これは確かに下心からの行動ですが、見方を変えれば「異性の欲望に応えるサービス精神」でもあります。先の「相手の趣味に興味をもつ」という行動も、確かに下心ではありますが、同時に相手に喜んでもらおうというサービス精神の発露だという側面もあるのです。


下心を完全に否定してしまうと、恋愛において「異性のニーズに応える」あらゆる行動が一切とれなくなってしまいます。外見を整えるのもダメ。異性ウケする趣味を始めるのもダメ。下手をすると、異性を食事に誘うことすら禁じられてしまうかもしれない。こんな「縛りプレイ」では、魑魅魍魎が跋扈する過酷な恋愛市場で勝ち残ることなどできるわけがありません。

  • 恋愛とは、異性の下心(欲望)を互いに満たし合う行為である。
  • 下心からの行動を異性自身が求めている場合もあり、それに応えることは「サービス精神」である。


下心に潔癖すぎ、自らに「縛りプレイ」を課しているタイプの非モテの方は、是非、↑のふたつを心に刻みこみ、自分の下心をもう少し解放してあげてほしいです。冒頭の彼のようないい人が、縛りプレイのせいで恋愛できずに悩んでいる光景は、あまりにも見るに忍びないので…


極まったモテはむしろ非コミュなのではないか問題

ここまで書いたように、恋愛の本質とは「異性との欲望の満たし合い」です。異性の欲望に応えれば応えるほど、人はモテます。

しかし、自分を捨ててまでサービス精神に徹しモテようとすることが、果たして幸せなのか?そのような、自分を晒さず相手の欲望に応え続けるような関係が、相互に心を理解し合う「本当のコミュニケーション」といえるのか?などの問題については、大いに疑問が残るところです。


id:kutabirehatekoさんの↓とその関連記事では、「自分を捨て異性ウケに最適化したマシーンと化し、間違っても相手と解り合おうなどと思わぬ『非コミュ化』こそがモテの極意なのではないか?」とモテの病理を鋭くえぐっており、とても面白いです。

kutabirehateko.hateblo.jp


恋愛は結局、異性との欲望の満たし合いなので、相手の欲望に応えるサービス精神は必須なのですが、どこまで自分を捨ててそれをやるのかという問題は、永遠のテーマなのでしょう。欲望に応えるためなら相手を騙してもいいのか、のような倫理的な問題もありますし*3、逃げるようなこと言いますが、結局のところバランスなのだと思います。

教えて"誠実"の定義。自分貫くことかな。
それとも 自分さえ捨ててまで 異性のニーズに応えることですか?
http://www.kasi-time.com/item-252.html

今回の記事を書いていて、そんな替え歌がふと心に思い浮かびました。

*1:ただし、公務員でカネはある。

*2:性欲だけではなく、経済、見栄、コミュニケーションなど、恋愛関係に求めるありとあらゆる欲望。

*3:ダメでしょう。