森岡先生の『正しい』言葉が、恋愛工学生に届かない理由

恋愛工学は女性蔑視だが、『それゆえに』ミソジニー男性から支持されている

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森岡先生が批判するように、恋愛工学が女性蔑視だというのはその通りなのだけれど、恋愛工学生にこの言葉は届かないと思う。なぜなら恋愛工学は女性蔑視で「あるがゆえに」、ミソジニー男性から支持されている思想だからだ。


恋愛工学で描かれる女性像は、酷く露悪的で、利己的で、エゴイズムに満ちている。男性の誠実さ、優しさではなく、容姿、社会的地位、権力、カネ、表層的なエスコートテクニック等に惹かれ、股を開く。『※ただし、イケメンに限る』というネットスラングに代表されるこうした「醜い」女性像は、しかし、ただの被害妄想と言い切ることはできない女性像だと私は思う。

「女性を思いやれる、優しく誠実な人間」よりも、「イケメン」や「傲慢だが社交性に長けた人気者」が女性に人気があるというのは、特に若い世代においては否定できない事実だろう。『東京タラレバ娘』における以下の描写などは、非常に象徴的だ。


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恋愛工学にハマる人間は、こうした「恋愛カースト」において、割を食わされていると感じている人間だ。恋愛における女性の「本音と建前」に、不信感を抱いている人間だ。君の心がわかるとたやすく誓える男になぜ女はついてゆくのだろう、そして泣くのだろう*1。あんなチャラ男よりも俺のほうが遙かに君のことを大切に考えているというのに、女はなんと男を見る目がないのだろう。

この認識が、正しいものなのかは分からない。その通りだという場合もあれば、単なる男性の嫉妬という場合もあるだろう。しかしなんにしろ、こうした実体験を経て「女は男を見る目がない」「女は醜い」という女性観を持つに至った非モテ男性にとって、恋愛工学が描く利己的で醜悪な女性像は、自らの考えを肯定し正当化してくれる、とても魅力的なものとして映る。


恋愛工学がミソジニー男性から支持を集める理由は、まさしくここにある。


恋愛工学で女性をモノに(『物』に!)する度に、彼らは女性の醜さを再確認する。「このようなゲスな手口に簡単に引っかかる女は、やはり男を見る目がない、醜悪な生き物なのだ!」と。

この行動によって、彼らは自らの「女は醜い、男を見る目がない」というミソジニーに更に確信を深め、正当化させていく。実際には、恋愛工学という露悪的な『罠』により、わざわざ女性の醜悪な部分を暴き立て、見なくてもよい恥部を自分から覗き込みに行っているにも関わらず*2

彼らは恋愛工学によって、女性と恋愛をしようとしているのではない。女性の醜さを露悪的に暴き立て、自らのミソジニー的な価値観の正しさを再確認し、正当化し、復讐するために恋愛工学を利用しているのだ。


これは、恋人や親にわざと嫌われる行動をとり自分への愛の純粋さを試すという、境界性人格障害に特徴的に見られる『試し行為』を思わせる自傷的な行動だ。境界性人格障害者と同じように、恋愛工学者は女性にゲスな罠を仕掛けることで女性の愛の純粋さを試し、純愛が得られないと見るや(自分からそう仕向けているのだから当たり前だ)「やはり女は醜い」と結論付け、自らのミソジニーの補強材料としてゆく。

この復讐の先に、救いはない。あるのは自らが招いた女性への更なる不信と、自らが招いた女性への更なる絶望だけである。


恋愛工学は露悪的すぎるが、森岡先生は女性を神聖視しすぎている

恋愛工学が男性のミソジニーを増大させる、女性蔑視の危険な思想であるという点は、これまで書いてきたように私も同感だ。しかし、森岡先生が提唱する『愛』もまた、ミソジニー非モテ男性の処方箋たり得ないと私は考えている。

冒頭で紹介したエントリにおいて森岡先生は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を引き、次のように述べている。

アリストテレスは「愛」について、「愛とは、その人に善いことが起きるのを願い、その人に善いことが起きるように行為することである」と結論づけている(『ニコマコス倫理学』)。すなわち、「愛」とは愛する自分の満足感や快楽や情熱のことを言うのではなくて、愛の対象となる人物がほんとうの意味で幸せになるように心から願い、その人が幸せになるように行為することだというのである。この考え方は、「人間の本性なんてどす黒いぜ、愛なんて信じるのはお子様だけだ、男も女もみんなエゴで生きてるんだよ!」という絶え間のない2000年以上にわたるディスりの連続の中で今日まで生き残り、多くの賢者たちや心ある市井の人々に受け継がれてきた考え方である。そうであるがゆえに、この「愛」の考え方は、実は信じられないほど頑強なものである。簡単に突き崩せるようなものではない。

しかし、この言説もまた、眉唾ものの綺麗事と私には聞こえてしまうのである。恋なんて、いわばエゴとエゴのシーソーゲームだというのが私の認識であるし、事実、そうした恋愛が世の中の主流を占めているというのが私の、そして多くの一般的な人々の恋愛観ではないだろうか。


なぜ、恋愛工学の露悪的な女性観が共感を集めるのかといえば、事実、そうした女性が存在するからである(冒頭の『タラレバ娘』のように)。現在の恋愛工学生も、かつては森岡先生が言うような理想的な恋愛観を信じていたに違いない。しかし、理想の女性と現実の女性とのギャップの前に、彼らは絶望してしまった。そうした男性に今更「愛とはエゴではない」と説いたところで、虚しく響くだけだ。

彼らは、恋愛や女性に対してあまりにも過剰な純粋さを求めすぎているのだ。女性に過剰な純粋さを期待しているから、現実の女性のエゴを認めることができず絶望し、ミソジニーに陥ってしまう。そんな彼等に純愛を説く森岡先生は、彼らの燃え盛るミソジニーの炎にガソリンをぶち撒けているようなものである。


彼らに言葉を届けるのであれば、女性の醜さやエゴの存在を肯定したうえで、それでも女性には素晴らしい部分がある、恋愛には素晴らしい部分があるというアプローチを取るしかないと私は考えている。それこそが、露悪的でも綺麗事でもない『現実の恋愛』の姿だと私は考えているからだ。

そしてこの『現実の恋愛』こそが。女性の醜さやエゴも認めたうえで、それでも女性を愛すという行為こそが。まさしく『1人の人間として女性を尊重する』ということなのではないだろうか。あなたの目の前にいる女性は天使ではない。しかし、かといって悪魔でもないのである。


最後に

私が考える『エゴを含んだ恋愛』については、以前いくつか記事を書きました。興味のある方は、こちらもどうぞ。

ta-nishi.hatenablog.com
ta-nishi.hatenablog.com

*1:中島みゆき『空と君のあいだに』

*2:この辺り、漫画『カイジ 和也編』において、「人間の本質は醜い」という自らの価値観を確認・補強するために、人間が『悪』にならざるを得ないシチュエーションを作り出し露悪的に実証するという、和也のあの心理を思い起こさせる。