同人誌サークル時代の想い出
10年ほど前、私はとある批評系同人誌サークルに所属していた。同人誌のテーマはモテ/非モテ、スクールカースト、サークルクラッシュ等で、思春期~青年期の男性の自意識の問題を主に扱っていた。
サークルメンバーは、ネットで知り合った仲間たちで、当時、ネットが今ほど「リアル化」されていなかった時代を反映してか、年齢は20代前半から30代中程までと幅広く、社会人も学生もいた。学歴も職業も、趣味趣向もバラバラな、一見して掴みどころのない集団だったが、ただ1点、それぞれが自分たちの自意識について、深い悩みや関心を所有しているという点で*1、私たちは「友人」だった。
そんな中に、現役東京大学院生のメンバーがいた。ここでは仮に、『T』としておく。Tは非常に頭がいい男だったが(東大院生なのだから当たり前だ)、女性からモテるタイプではなく、私たちがネットで交わしていた自意識やモテに関する話題に関心を持ち、参加してきたメンバーだった。
Tは秀才だったが、同時に変態でもあった。風俗が大好きで、2chのそれ系のオフ会へ侵入しては様々なセックスを楽しんできたという体験談を聞いたときは、爆笑させてもらったものだ。そんなぶっ飛んだTが、私は好きだった。
枝分かれしていく人生
未練を残した思春期の延長戦を共に戦い続けているような、そんな関係の当時の私たちだったが、月日が流れるにつれ、メンバーそれぞれの環境は変わっていった。ある学生メンバーは社会人になり、ある独身メンバーは夫になり父になり。それぞれの場所で新しい人生の課題に取り組むようになるにつれ、かつてあれほど熱を上げ議論し合った自意識の問題は、いつしかそれぞれの人生の中心的な課題ではなくなっていった*2。
そうしてサークルは、自然に解散へと向かっていった。誰言うともなく集会の回数は減り、同人誌は発行されなくなった。それは当然の流れであり、メンバー各員の「成長」の証であるとも言えた。人生はそうして、出会いと別れを繰り返しながら枝分かれをして続いていく。
次第に縁遠くなっていった私たちだったが、それでも年に一度、年末の時期に誰言うともなく「同窓会」が開催されていた。久しぶりの仲間たちと近況報告をし昔話を懐かしむ、とても楽しいひとときだ。今年も同窓会が計画され、連絡用LINEグループが作成され…
…TはそのLINEグループを、1人無言で、抜けていった。
私は最初、TがLINEの操作を誤ったのだと思った。しかし考えてみれば、Tはそのグループで一切発言もせずスケジュール合わせへの協力もせず、明らかに参加に積極的ではなかった。引っかかるものを感じTwitterを確認すると、いつの間にか私は、Tのフォロワーから外されていた。
Tとは、それなりに長く深い付き合いだと思っていたので、私は困惑した。何か思うところがあって抜けるにしても、何かひとこと言ってくれればいいのにと、Tの非礼を非難したいという気持ちも沸き起こった。
しかし一方で、私は気付いてもいた。私たちの「低レベルな」集まりに、近年Tが、だんだんと乗り気では無くなっていっていたことに。
リア充になったT、置いて行かれた私たち
恐らくTは社会人になったあと、「現実」に生きるようになったのだ。
名前を出せば誰もが知るとある有名企業に就職して以来、Tは人が変わったように「まとも」になった。仕事に打ち込むようになり、趣味の話題や「鬱イート」に使われていたTwitterは、ビジネスの話題で埋め尽くされるようになった。風俗通いも、しなくなった。結婚を前提とした彼女もできたという。
Tは社会人になり、現実社会で「エリート」として飛躍した。Tはもはや、私たち「ボンクラ」と同じ階層に生きる存在ではなくなっていたのだ。そんなTにとって、かつて私達があれほどの熱量を持って語り合った自意識の問題は、もはや人生において取るに足らない、くだらない問題と感じられるようになったのだろう*3。
Tが学生だったころ、私はTと同じ土俵にいることを、信じて疑わなかった。私は高卒だが*4、そのことで東大院生のTに引け目を感じたことは一度としてなかったし、異性について共に馬鹿話をしているときのTは、「友人」そのものだった。
しかしそれは、結局のところTが学生だった一時代だけの、「幸福な平等」に過ぎなかったのかも知れない。
私は人生で初めて、学歴コンプレックスを感じた*5。Tに「置いて行かれた」と感じた。Tの飛躍が東大院卒というステータスにのみ拠るものだなどとは、微塵も考えていない。社会人になってからのTは本当に努力していたし、そもそも東大院にまで進んだTが努力家でないわけがなく、無能な人間であるわけがないのだ。
誓って言うが、Tを批判したいわけではない。Tに怒りを感じているわけでもない。立場が変わり環境が変われば価値観も変わり、それに応じて周囲に居る人間も変わっていく。人生とは、そういうものだ。古くは小中学生時代から、そうした別れを私たちは人生で幾度となく経験してきた。そんな基本的なことは、私も理解している。「仕方がないこと」。その仕方のなさを理解しているからこそ、Tも無言で去っていったのだろう。それは、Tの気遣いだったのだと、私は解釈する。
ただそこに、一抹の寂しさは、ある。
この世界に産み落とされた刹那の瞬間、私たちは誰もが生涯で最も「平等」な一瞬を生きる。次の瞬間から、無情なる私たちの「ランク分け」は始まる。まず男と女で分けられ、次いで家庭環境で分けられ、障害の有無で分けられ、性的指向で分けられ、容姿で分けられ、公立/私立で分けられ、スクールカーストで分けられ、学歴で分けられ、就職先で分けられ、肩書で分けられ、経済力で分けられ、独身/既婚で分けられ、子あり/子なしで分けられる。
そのことが、必ずしも悪いことだとは思わない。結局のところ、人間は「同類」を求め合う。エリートはエリート同士、ボンクラはボンクラ同士でつるんでいたほうが居心地がよく、お互い、充実した時間を過ごすことができる。「ランク分け」は、必ずしも人間の「上下」を規定するものではなく、お互いのための「気遣い」でもあるのだ。
だが。
10年前のあの一時期、私たちは同じ花を見て、確かにお互い、美しいと感じ合っていた。私たちのあの時の心と心は、今はもう、通わない。その巨大な寂しさを、私はいま、ただひたすらに感じている。
願わくば、あの素晴らしい愛を、もう一度。
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