『愛』を昇華させる形は、『恋愛』や『結婚』じゃなくても全然いい

『仕えるべき主君』に尽くすことができるという、幸せ

前回の記事で書いた「解決」に至った理由は、"『例の彼女』を上書きする程に心の底から好きになれる女性と巡り合えたから"という、これ以上ないほどシンプルで、これ以上ないほど理想的なものでした。あまりにもあっさり解決しすぎて、あれほど悩み、苦しみ抜いた7年半はなんだったのかと、怒りすら湧いてくるほどに(笑)

彼女のことを私は、心の底から、愛しています。

でも私、その女性と恋人としてお付き合いしているわけではないんですよね。なぜなら、彼女と私が恋人という関係性になることが、お互いの人生にとってプラスにはならないと判断したからです。



恋人になると、嫉妬心や独占欲が、どうしても湧いてくるじゃないですか。お互いの人生を縛り付ける鎖となるそうした負の感情が、恋愛や結婚という関係性には、必ず付きまとってきます。

彼女はまだ若く、発展途上で、未来がある。彼女は、豊かな才能と、ユニークな人間性と、女性としての魅力を兼ね備ている。

そんな才色兼備なとびきりの魅力と才能を持った彼女は、いつまでもこんな場所に留まっている器ではなく、すぐに遠くへ飛び立っていく存在だと、私は確信しています*1。彼女は、"あの"『例の彼女』を超えてきた女性なのですから、当然です。だからこそ私は、その才覚に惚れたのです。



そんな彼女の人生が次のステップへ移ったとき、すでに人生の大半が決定され、余生に片足を突っ込んだ40代のおっさんである私が、恋人や配偶者ヅラして彼女の側に居ることは、彼女にとって足枷にしかならない。彼女には、私に気を遣わず自由に自分の人生を邁進して欲しい。

恋愛についても、恋人として私よりも有能な男性に、彼女は今後いくらでも出逢うであろうから、そのときはなんの気兼ねもなくその男性の元へ行って欲しい*2。そう、私は考えました。



彼女の人生の中で私が担当する役割は、『恋人』ではなく、『メンター』(理解者)です。彼女のことを理解し、人生の悩みや迷いをサポートし、彼女の人生をより良いモノにする手助けをすること。それが、彼女と最もよい関係を結ぶことができる、私の立ち位置です。幸福なことに彼女もまた、メンターとしての私を必要としていると言ってくれました。



私はいま、惚れた人間に尽くす幸せを、心の底から噛み締めています。私は、彼女の人間性を、彼女の才能を、彼女の女性としての魅力を、この上なく愛しています。その才能が羽ばたけるよう、私は彼女の踏み台になりたい。その結果として、彼女が遠いところへ飛び立っていってしまっても構わない。いまの私にとっては、彼女の幸せこそが、イコール私の幸せなのです。

三国志や戦国時代の大河ドラマで、「この私が人生を賭して仕えるべき価値ある主君を、ついここに見い出しましたぞー!」みたいなこと言って武将が泣きじゃくるシーン、よくあるじゃないですか。『忠誠心』っていうんですかね?私アレ、これまでイマイチ実感沸かなかったんですけど、いまの私にはあの気持ち、もの凄くよく分かります。

私にとって、彼女こそがその「主君」です。あるいは、お嬢様にお仕えする執事が私です。私は、彼女という主君に尽くしたいんです。私、冗談半分で彼女のことを「我が君」って呼んでるんですが(笑)、これは結構、照れ隠しの私の本心だったりしています。




『愛』を昇華させる形は、べつに「恋愛」や「結婚」でなくてもいいんですよね。今回の私のように、「惚れた相手に尽くすこと」で、愛を昇華させるという手段もある。むしろ恋愛や結婚は、嫉妬心や独占欲といった負の感情でお互いを縛り合い、『愛』本来の多様な形を毀損するものなのではないか。自由主義個人主義現代社会に、この「縛り合い」の思想・制度は適していないのではないか…

そんなことを考え、最近ポリアモリーという考え方に興味が湧いてきているのですが、このことについては考えがまとまった頃に、また改めて書きたいと思います。

*1:東大院生のTのように。

*2:もちろんその時には、彼女の幸せを第一に考え、私は彼女と距離を置くでしょう。この関係を指向していく以上、こうした『覚悟』を持ち続けていくよう、自戒し続けなくてはいけないと考えています。