性の規制も解放も絶対的な正しさではなく、反対側にいる人間を『必ず』抑圧するものだという前提を、共有した方がいい

『正・善・優』を規定することは、反対側に『誤・悪・劣』を作り出すことと、イコールである

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↑周辺で、「NHKのような公的な場にキズナアイのようなモノが出て来ると、"男性に媚びる、性的な女性が正しい女性像であり、そうでなければ女性は愛されない"という社会的メッセージが発せられてしまうから駄目だ」という意見を見かけた。

しかしこれは、少々一面的すぎる見方だと思う。

確かに、ある属性や表現や価値観の社会での扱われ方が、社会的メッセージを発するということは、ある。それが公的に採用されたものであれば、その価値観が「正しい」ものだと、社会のお墨付き得ているのだというメッセージを発する効果もあるだろう。

それに沿った「正しい」女性像を現実の女性が内面化し、その規範に当てはまらない/当てはまりたくない女性が生きづらさを感じてしまう。そうした「社会規範による抑圧」の話も、理解できる。


しかしこれは、逆の見方もできる話だ。


もし仮に、「性的なモノは公共から排除されるべき」という主張が圧倒的な社会の主流となり、性的なモノが徹底的にゾーニングされ、公的な場から排除されまくる社会が訪れたらどうなるか?

そうした社会は、「性的なモノは表に出てくるな」という社会的メッセージが、非常に強く発せられる社会になるハズだ。その社会では、今度は性的に奔放に生きたい女性が日陰者として生きにくさを感じる事になってしまうだろう。その典型的な例が、現在社会においてもすでに存在する、売春婦差別である。


性が解放されるにしろ規制されるにしろ、そこに社会的「正しさ」を規定するメッセージが乗せられることは、絶対に避けられない。そしてその「正しさ」に乗れない/乗りたくない側の人間は、必ず生きづらさを押しつけられることになってしまう。なんらかのモノサシで「正・善・優」を規定することは、その反対側に「誤・悪・劣」を作り出すことと、必ずイコールだからだ。

これは、性に限った話ではない。例えばタバコに対する社会的規制が強まるにつれ、喫煙者がどんどんと「正しくない」存在と見なされるようになり、肩身が狭い思いをするようになっていった光景は、私たちの記憶にも新しいだろう*1


この『抑圧』を、少しでもマシなモノにするために

このように、社会的な扱われ方によって「正しさ」が規定され、その反対側にいる人間に「生きづらさ」が押し付けられてしまう現象は、この社会でずっと繰り返されてきた、ありふれた光景だ。この「抑圧」をすべて無くすことは、不可能だろう。なんの「正しさ」も存在しない社会など、あり得ないのだから。

ただ無くせないまでも、この抑圧を少しでもマシなモノにしようとするならば。

その為には、ひとつの「正義」に、あまりにも絶対的な権力を与え過ぎないことだろう。社会の価値観に、多様性というバッファを用意しておくことだろう。

正義は常に相対的なものであり、ある人間の正義は、必ず反対側の立場にいる人々を「悪」と断罪し抑圧する。これは、思想信条や立場に関係なく、世界中の人々が夢々忘れてはいけない真実だと思う。今回書いた私の主張も例外ではなく、「多様性なんざ知らん。私が考える唯一絶対の正義で世の中は埋め尽くされるべきだ」と考える人間にとっては、抑圧として機能する。

世界中すべての人間にとっての正しさなど、なにひとつ存在しないのである。


ta-nishi.hatenablog.com

*1:そう考えていくと、キズナアイを触媒とした性の規制に関する攻防は、つまるところ「社会的正義」をどちらが勝ち取るのかという権力闘争なのだろう。勝者は「正義」を手に入れ、「正・善・優」/「誤・悪・劣」の設定も思うがまま。自分たちに都合がよい社会を意のままに作り上げることができる。反対に敗者は「悪」と見做され、生きづらさを押しつけられ、社会から居場所を失っていく。こうした実存と実益をかけた闘いだからこそ、この議論はここまで白熱しているのだろう。「正義とは勝者のことである」とは、フィクションの悪役のテンプレ中のテンプレと化した陳腐な台詞だが、現実でもそう間違った話ではない。