私たちオッサンオバハンが、『分不相応な恋愛感情』による害悪を撒き散らさないために

オッサンオバハンは、異性から欲望されるに値する恋愛資産を持っていない

togetter.com

↑あまりにも痛々しい話だけれど、今後、生涯を独身で終える可能性が高い41歳のオッサンである私には、あまり他人事ではない話だと思った。若い女性に恋愛感情を抱いてしまうこと自体が世間的に非常識と思われるような年齢になったとき、それでも抱いてしまった恋愛感情を、私たちオッサン及びオバハンはどのように昇華するべきなのか。


まず大前提として、各々の合意さえあれば、どのような年齢差があろうと恋愛は自由である。68歳の加藤茶が、45歳年下の23歳女性と結婚しようと完全に自由だし、他人が口を挟むような問題ではない。

しかし現実問題として、一般的な68歳の老年男性が、23歳の女性から恋愛相手・結婚相手として合意を受け入れてもらえるかといえば、まず、無理だろう。こんな芸当が可能なのも、ひとえに加藤茶が、社会的地位も名声もカネも権力も、一般的に女性が求めるあらゆるモノを潤沢に持っている男性だからだ。肉体的な衰えはあったとしても、それを補って余りある、女性に与えられるモノを持っている男性だからだ。どのような人格者であっても、一般的な男性に、このような「神技」は絶対に真似できない。


以前私は、恋愛とは異性との「欲望の等価交換」だと書いた。そして、交換不可能な好意の押し付けは、時に「加害」になり得る、と。

ta-nishi.hatenablog.com

加藤茶は、女性の欲望に応えるに値する資産を持っている。しかし、私たち一般的な壮年期/老年期の男性は、そのようなモノを持ってはいない。若い健康的な肉体と精神も、容姿も、将来の可能性も、とっくの昔に過去に置いてきてしまった。結婚に目を向ければ、年齢的経済的理由から子供を作れるかどうかすらも危うい。

そんな、女性にとってなんの魅力も持たない男性が、恋愛市場における「強者」である若い女性に好意を持つなど、その行為自体が迷惑で、身の程知らずで、暴力的な加害行為なのかも知れない。言わんや、その好意を口に出し、直接伝える行為など。


しかし、それを知りつつ私たちは、年甲斐もなく恋に落ちてしまう。職場で、趣味の集まりで、行きつけのバーでスナックで。「分不相応」だと知りつつ、それでも私たちは、恋に落ちてしまう。

そうした時、私たち「持たざる者」たちは、その恋愛感情をどのように昇華すればいいのだろう?冒頭の記事の老人は、その、あまりにも醜悪な失敗例だ。あのような痴態を晒す老害にだけは、絶対になってはならない。その為のスキルを、私たち「高齢非モテ」は身に付けなくてはならない。



「そもそも現実の女性に恋愛感情を抱かないよう努力する」という最適解

あのような「老害」にならない為に、私たち高齢独身男性はどうすれば良いのだろう?


ひとつの最適解は、「そもそも現実の女性に恋愛感情を抱かないよう努力する」ことだろう。現実の女性との接点を可能な限り無くし、相手を好きだという感情を抱く隙すら自分に与えない。それでも余った性や愛の欲求は、風俗や2次元の異性に、金銭と引き換えに癒やしていただく。


これは私の専売特許ではなく、10数年前にはてなダイアリー周辺で盛り上がっていた「はてな非モテ論壇」で、「喪男」と呼ばれていた一派が提唱していた「護身」と呼ばれる技法そのものだ*1

確かに性的魅力があまりにも乏しく、好意の表明そのものが相手にとって加害となってしまうような人間は、恋愛を望むことそれ自体が異性にとっての暴力となり得る。であれば、異性と関わらないことでその被害を減らそうという試みは、なるほど、ある種の「モラル」なのかも知れない。


恋愛論において、このような「自分のような駄目な人間が好意を寄せたら、相手に迷惑だ」という考えは、「自尊心が低すぎる」「要は勇気がないんでしょ*2」という話になりがちだが、それも程度問題だろう。「分不相応な恋愛感情」というモノは厳然として存在するし、実際、多くの人間はそのことを熟知しており、「本当に好きな相手」ではなく、「自分の恋愛力に釣り合う相手」を恋人として選択している。

自分と釣り合うレベルの異性を、心から愛することができた人間は幸せ者である。分不相応な「格上」しか好きになれない人間は、恋愛/結婚するために主観的には不本意な「妥協」を強いられる*3

そして、手持ちの恋愛資産があまりにも少なすぎたり、加齢による恋愛能力の低下により恋愛カーストにおける地位が下がり、すべての恋愛対象が「格上」になってしまった場合。「護身」はひとつのモラルであり、処世術として検討する余地がある思想なのかも知れない。


高齢というステータスは、恋愛/結婚においてはそれだけで大きなマイナスポイントである。加齢によりいつの間にか恋愛カースト最下層に転落してしまった高齢者が、異性に対してどのように振る舞うべきなのか。独身高齢者が増えていく今後の社会において、これは高齢者自身が考えていくべき重要なテーマであるような気がしている。




【補足】これは、高齢者だけの問題でも、独身者だけの問題でも、男性だけの問題でもない

今回の記事は、主に「高齢独身男性」を念頭に置いて書いたが、「護身」に関しては、老若男女関係なく、すべての「非モテ」が一考する価値のある問題だと思う。ただ、老いた人間のほうが若さという点で不利な状況に陥りやすいので、ここでは高齢者を主な言及対象とした。

また、「分不相応な恋愛感情の暴走」という意味では、配偶者という「歯止め」が無いぶん独身者の方が暴走しがちで、既婚者よりもより強い注意が必要と思われるが、たとえ既婚者であろうと異性への「分不相応な恋愛感情」の扱いについては、充分な注意が必要だろう。むしろ、コトに及んだ場合のダメージという点では、離婚や訴訟リスク等の観点から、独身者より深刻かも知れない。事実、冒頭の「ぴくじい」は孫さえいる既婚者である。


ちなみに私は、若いうちから「護身」に走ることには否定的だ。恋愛/結婚においては、若いというだけで大きなアドバンテージがある。成長する余地もあり、選択可能な異性の幅も広い。そうした時期から異性から撤退してしまうのは、端的に言って勿体無いと思う。




【余談】個人的『喪男』評、あるいは「はてな昔ばなし」

「護身」はある種のモラルなのかも知れない、と↑の記事では書いたが、はてな非モテ論壇時代の「喪男」自身、自分たちのことを「モラリスト」と自称していた。「関わらないことで女性を傷つけないようにする」という面では、なるほど、確かにその通りだったのかも知れないが、一方で彼らの多くは重度のミソジニーに陥っており、「女はみんな、肉便器」のような暴言を、平気で使っていた。

これではなにが何やらわからない。もし本当に「モラリスト」として女性を傷つけないよう振る舞う事を目的とするのであれば、単に女性から撤退すればよく、女性を攻撃する必要はないハズである。このことから私は、彼らが言う「護身」は、本当は女性を渇望しているにも拘わらず手に入れられない欲求不満から逃避するための、あるいは思い通りにならない女性たちを攻撃するための理論武装であり、「酸っぱい葡萄」だったのだと考える。

私たち高齢非モテが実践する「護身」はそのようなミソジニーではなく、より洗練された本物の「女性からの勇気ある撤退」でなければならないだろう。

電波男

電波男

d.hatena.ne.jp

*1:喪男道』等を参照。 本田透著『電波男』をバイブルとする。

*2:古来よりはてなに伝わる非モテ論壇発祥の名言。 要は、勇気がないんでしょ? - Attribute=51

*3:東京タラレバ娘』は、この葛藤を描いた作品だった。