弱者男性論者を見ていると、「社会適応という名の悪」に対してあまりにも潔癖すぎると強く感じてしまう

15年ほど前の私は、当時はてなダイアリー界隈で流行していた「非モテ論壇」の一員だった。「スクールカースト」をはてなキーワードに登録した人間だと言えば、伝わる人には伝わるのかも知れない*1

最近流行の弱者男性論の内容は、当時の非モテ論と重なる部分が非常に多い。焼き直しと言ってもいい。唯一違うのは、当時の非モテ論壇では現在弱者男性の定義のひとつとされている「経済力」が完全に無視されていたことだ。

当時の非モテ論者は20代の若者がほとんどで、半分くらいは学生だった。この年代の若者にとってモテと経済力はほとんど相関がなく、モテを左右するのは主に容姿やコミュニケーション能力やサークル内での立場等、要は「異性にとっていかにイケている存在か」という「恋愛規範」にいかに乗れているかという部分で勝敗のほとんどが決する。当時の非モテ論壇で経済力が全く重視されていなかったのは、論者の若さに拠る部分が大きかったのだと思う。


私が当時ブログで非モテ論を書きまくっていたモチベーションの根本には、「恋愛規範」への違和感があった。恋愛で勝利するためには社会に流通する「恋愛規範」に乗らなくてはならない。例えば容姿を整え身なりを清潔にすること。流行りの遊びやファッションに精通していること。明るく陽気に振舞い女性を楽しませること。

若き日の私は、これらの事が壊滅的に苦手だった。これらの事にコンプレックスを持っていた。「ありのままの自分」で恋愛可能なほどには、私は恋愛力に恵まれていなかった。


それでも女性や恋愛への欲求を捨て切れなかった私は、恋愛力を鍛えることにした。2000年頃のインターネットの片隅には「脱オタ」というムーブメントがあった*2。モテない事に悩む人間がサイト上に集い、ファッションや女性とのコミュニケーションに関する悩みを語り合い、情報を共有し、モテを目指す。今でいうところのナンパ塾や恋愛工学のようなものだと考えてもらえれば概ね差し支えはない。

その結果として、私には彼女ができた。心の底から愛し合えていると感じることができる、素晴らしい女性であり恋愛経験だった。そのようにして私は「非モテ問題」から救われた。


非モテからの脱却に成功した私だったが、私の中には違和感が残った。「脱オタ」を達成するために私は興味も無いファッションや流行の遊びを勉強して大金をつぎ込み、夜の盛り場に繰り出しては女性に声をかけ、明るく陽気に振舞い女性たちを楽しませた。いかにも自分が「リア充」であり魅力的な男性であるかのように本来の「非モテ」な自分を偽り、女性たちを「騙した」のだ。

このことは私に罪悪感を抱かせた。女性に対する自らの欲望を満たすために「悪」に染まってしまったと思った。しかしこの「悪」は事実、女性たちに有効に機能した。疑問が生じた。このような「悪」が正しいとされる現代社会の「恋愛規範」は、間違っているのではないだろうか?そしてその「悪」に簡単に騙されてしまう、むしろそれを自ら求めている女性たちとは、一体なんなのだろうか?


私にとっての「脱オタ」は、喩えるなら就活のようなものだった。就活では誰も「ありのままの自分」で勝負などしようとはしない。経歴を盛れるだけ盛り、時には詐称までし、自分がいかに企業にとって魅力的な「商品」なのか「偽りの自分」を作り出してアピールする。潔癖な人間ほどこの行為を「悪」と感じるだろう。くだらない茶番であり、騙し合いだと断じるだろう。しかしこの「悪」に染まらなくては、就活という戦争を勝ち抜くことはできないのだ。


こうして人はまたひとつ「社会性」を身に付け「堕落」していく。かつて尾崎豊はその楽曲の中で「大人は汚い」と叫んだがこれは圧倒的な真実だ。人間は生きれば生きるほどに、大人になればなるほどに、社会性という名の汚泥にまみれていく。その汚さに耐えられない潔癖すぎる人間は、耐え切れなくなった時点で文字通り命を奪われてしまう。尾崎豊雨宮まみ二階堂奥歯。みな若くして自死を選んだ。彼・彼女等は社会から求められる「悪」に対して潔癖すぎ、適応することができなかったのだ。


社会性を身に付けたまともな大人なら、ここまでの議論を青臭い議論だと一蹴するだろう。ご潔癖なことでと嘲嗤うだろう。私も同感だ。私はすでに社会適応を選び、社会性という「悪」に加担する存在となることを自らの手で選択したのだから。あなた方と同じように。

しかし社会に適応することは、本当にそこまで「正しい」ことなのだろうか?「社会規範」の方が「悪」であり間違っているという可能性はないのだろうか?


弱者男性論者を見ていると、そこに通底しているものはここで書いたような「社会に対する潔癖さ」であるように感じられる。彼らが執拗に自由恋愛の醜さや欺瞞を暴き立てようとするのは、そこにある「社会適応という名の悪」を許すことができないからなのではないか。私にはそう感じられてならない。

*1:いまの私はいわゆる「転生アカウント」である。

*2:脱オタク」の略。当時の「オタク」は今でいう「キモオタ」や「陰キャ」と同じようなニュアンスの言葉であり、キモい人間に対する蔑称として使われていた。