オリンピック開会式が大成功に終わったと聞いて、日本のマジョリティのみなさんに失望した

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元々オリンピックへの関心はゼロだった。私にはスポーツを観戦する趣味もプレイする趣味も一切ないからだ。けれどもスポーツのファンが世界中にたくさんいることは知っているし、オリンピックはそうした人たちに向けられたイベントなのだと理解していた。

「not for me」。サザンオールスターズのライブと同じだ。サザンオールスターズファンにとってサザンのライブは特別な響きを持ち心湧き胸躍る一大イベントだが、ファンではない人間はライブがいつ行われているのか、そもそも行われているのかすら知らないだろう。

私にとってオリンピックはそういう類のイベントだった。でも楽しみにしている人はたくさんいるのだろうし、そういう人たちが存分に楽しめるイベントになればいいんじゃないか。そう思っていた。


開催が迫り、否が応にもオリンピックに関する報道を見聞きする機会が増えていくにつれ、私の心境は変わっていった。

記者の質問を無視し、「安心・安全」と壊れたラジオのように記者質問の意を汲まない答弁を繰り返し説明責任から逃げ続ける菅総理五輪憲章にそぐわない人物を下調べもせず運営に起用し、あまつさえ続投させようとしてしまう組織委の理念の欠如。そのくせ海外からの圧力がかかれば一転してすべて言いなりになってしまう信念のなさ。その他あらゆるニュースが政府と組織委の醜悪さを示唆していると感じられた。

腐敗臭がする数多の報道を受け、私のオリンピックへの関心はゼロからマイナスへと大きく移り変わっていった。こんな腐った組織が運営する大会など、とてもじゃないが応援する気になれないと思うようになった。開会式も競技も元からたいして観る気もなかったが、「絶対に観たくない」へと私の心境は変わっていった。



開催前の批判が嘘のように、開会式は大盛況のうちに終わったようだ(1ミリ秒も観ていないが伝聞によれば)。おそらくこれまで意見を表明してこなかった、是にも否にもオリンピックに強い意見を持たない「無党派層」が、「国民的イベントだしとりあえず観るか」といった気分で鑑賞し、感動し、盛り上がっているのだろう。

批判層が突然手のひら返ししたわけではあるまい。私のTwitterのTLを見ていると、これまでオリンピックについて何も発言していなかった方が、開会式を機に一斉に「すごいすごい!」と感嘆の声を挙げているのを多くみかけた。一方で、以前から今大会に批判的な発言をしていた方は、現在も批判的な発言を続けている。無党派層の可視化により、批判層が相対的に薄く見えるようになったということだ。

「ネットは一部の先鋭的な発言をするノイジーマイノリティを際立たせるが、本当の多数派はなにも発言しないサイレントマジョリティである」よく聞かれる言説だが、これが今回も証明された形だろう。

つまりこれが、日本のマジョリティの「民意」なのだ。

繰り返される「大会が始まれば批判など忘れて国民は熱狂する」という政府の発言は、このことを読み切っていたからこそのものだったのかも知れない。であれば敵ながら天晴れと、私は政府を称揚する。


世論の流れに関係なく、私は今回のオリンピックの個人的ボイコットを続けていく。テレビのコンセントはパラリンピック終了まで抜きっぱなしにしておく。それが私が一個人としてできる今大会への最大限の抵抗であり、抗議だからだ。

オリンピックを楽しんでいる方々、選手のみなさま、現場で開催に尽力しているスタッフの方達を批判する気持ちは1ミリもない。コロナも関係ない。税金の使途でもない。

私が批判するのはただ1点。組織委の理念のなさ、信念のなさ、骨の髄まで染みついた事なかれ主義と日和見主義と身内贔屓。それだけだ。これが改善されたと感じるまで、私は今後1票たりとも選挙で自民党に票を入れないし、オリンピックを肯定的に語ることもないだろう。


日本を上から下まで覆う、理念のなさ、信念のなさ、骨の髄まで染みついた事なかれ主義と日和見主義

ここまでの文章で私は「オリンピックを楽しんでいる方々を批判する気持ちは1ミリもない」と書いた。しかしあれだけの邪悪を見せつけられた上でなおオリンピックを無邪気に応援できてしまう国民性というものには、私はいささか、というか相当に失望している。

これは批判ではない。組織委の行動をどう評価しオリンピックをどう楽しむかなど、完全に個人の思想信条の自由だ。その自由の行使を私には批判する権利などないし、批判したところでどうなるものでもあるまい。ただ、考え方がちがうだけだ。考え方がちがうマジョリティに対し、一方的に失望しただけだ。私は好きにした。君らも好きにしろ。


しかしこの国民性は、理念のなさは、信念のなさは、骨の髄まで染みついた事なかれ主義と日和見主義は、現政権や組織委と、日本のマジョリティの間に完全に通底した性質だと私は思う。政権は国民の写し鏡とはよく言ったものだ。

この理念のなさを、信念のなさを、骨の髄まで染みついた事なかれ主義と日和見主義を、私は醜悪なものだと嫌悪する。しかしこれは、上から下まですべての階層に染み込んだ日本人の国民性のようだ。である以上、マイノリティである私の意見は民主主義原則に従ってすり潰され、日本という国は私にとってどんどんと醜悪な方向へと進んでいくのだろう。私にとっては「悪」と感じられるような人間がえらくなり、出世し、権力の座に就くのだろう。

それを止める術は、私にはない。私は、無力だ。


【2021/7/25 10:00 ブコメを受け追記】

批判(ひはん)の意味 - goo国語辞書
1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」

2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」

3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。

オリンピックを楽しんでいる人たちは悪いことしてるわけじゃないんだから、批判はしませんよ。存分に楽しんで欲しいと思います。ただその行動が結果的に為政者から「国民はチョロい」と思われ「大会が始まれば批判など忘れて国民は熱狂する」などと舐めた事をいわれる元凶となってしまうことに、心底うんざりしているのです、私は。


【2021/7/25 13:35 追記】

この記事を書いた2021/7/24 13:00時点では開会式の興奮からだろう五輪称揚のムードが強く、「大会が始まれば批判など忘れて国民は熱狂する」という政府の予言は当たってしまうのかと私は暗澹たる気分になっていた。

しかしそれから24時間。その後も開会式をふくめ五輪を批判する記事はマスコミから発信され続け、はてブなど見ていても全体的に世論はオリンピックに批判的な論調が多数を占めているようだ。

ただこれは、サイレントマジョリティが再びおとなしくなったからそう見えるだけなのかも知れない。その結果は、次回の与党支持率調査である程度あきらかになるのだろう。