しがらみのない自由な社会環境を良しとする人が、それと表裏一体なコミュニケーション至上主義社会・モてる者とモてない者の格差社会を悪しとしているのは、あれなんだろう?コミュニケーションが自由化すれば、人間関係の市場化も不可避な筈。そのあたりを無視し理想論を夢見るとして何を夢見るのか。
2013-07-17 13:00:23 via web
逆に言えば、人間関係の市場化・モテる者とモテない者の格差社会を非とするなら、なんらかのかたちで、現代のしがらみのない自由な社会環境、コミュニケーションの自由化された状況が留保された未来を夢見なければならない筈。留保の方法論はさておいて。勿論これは難題なので、議論は大抵ここで止まる
2013-07-17 13:02:07 via web
id:p_shirokumaさんの↑の話について、ここしばらく考えてみたのですが。
もしもシロクマさんが言うように、コミュニケーション市場が無くなり、人間関係の流動性が低い、「なんらかのかたちで、現代のしがらみのない自由な社会環境、コミュニケーションの自由化された状況が留保された未来」が訪れたとしたら、「コミュニケーション弱者」や「非モテ」の人にとって、より厳しい未来が訪れてしまうのではないでしょうか。
コミュニケーションは、個人の資質だけでなく、周囲との「相性」がとても重要な領域です。Aというコミュニティでは疎まれ、嫌われ、爪弾きにされる人物が、Bというコミュニティでは人気者で、仲間の中心となり、活き活きとコミュケーションをとれるということは、ごくありふれた話です。
ひと昔前の青春小説では、学校では日陰者としてひっそりと過ごしている人物が、放課後、ライブハウスなどでは仲間に囲まれ、活発に楽しそうに過ごしているというような描写が、よく見られました。
こうした適応のカタチは、コミュニケーションが自由化されているからこそ可能な話です。「なんらかのかたちで、現代のしがらみのない自由な社会環境、コミュニケーションの自由化された状況が留保された」、戦前の山村のような閉鎖された社会では、与えられたコミュニティに適応できなかった場合、「村八分」にされ、非常に厳しい状況に追いやられてしまっていました。
コミュニケーションが自由化/市場化された社会は、「モテる者とモテない者の格差社会」であり、下層の人間に厳しい社会ではあるのですが、閉鎖社会で村八分にされてしまうよりは、まだマシな社会ではあるのではないでしょうか。
「人間関係の市場化・モテる者とモテない者の格差社会を非とする」人たちが、どういう考えで「しがらみのない自由な社会環境を良し」としているのかは知りませんが、今回書いたような話はあるのではないかと思いました。
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