コミュニケーションが自由化された社会はモテ/非モテの格差を産むが、閉鎖社会で村八分にされるよりはマシという話

id:p_shirokumaさんの↑の話について、ここしばらく考えてみたのですが。

もしもシロクマさんが言うように、コミュニケーション市場が無くなり、人間関係の流動性が低い、「なんらかのかたちで、現代のしがらみのない自由な社会環境、コミュニケーションの自由化された状況が留保された未来」が訪れたとしたら、「コミュニケーション弱者」や「非モテ」の人にとって、より厳しい未来が訪れてしまうのではないでしょうか。

コミュニケーションは、個人の資質だけでなく、周囲との「相性」がとても重要な領域です。Aというコミュニティでは疎まれ、嫌われ、爪弾きにされる人物が、Bというコミュニティでは人気者で、仲間の中心となり、活き活きとコミュケーションをとれるということは、ごくありふれた話です。

ひと昔前の青春小説では、学校では日陰者としてひっそりと過ごしている人物が、放課後、ライブハウスなどでは仲間に囲まれ、活発に楽しそうに過ごしているというような描写が、よく見られました。


こうした適応のカタチは、コミュニケーションが自由化されているからこそ可能な話です。「なんらかのかたちで、現代のしがらみのない自由な社会環境、コミュニケーションの自由化された状況が留保された」、戦前の山村のような閉鎖された社会では、与えられたコミュニティに適応できなかった場合、「村八分」にされ、非常に厳しい状況に追いやられてしまっていました。

コミュニケーションが自由化/市場化された社会は、「モテる者とモテない者の格差社会」であり、下層の人間に厳しい社会ではあるのですが、閉鎖社会で村八分にされてしまうよりは、まだマシな社会ではあるのではないでしょうか。

「人間関係の市場化・モテる者とモテない者の格差社会を非とする」人たちが、どういう考えで「しがらみのない自由な社会環境を良し」としているのかは知りませんが、今回書いたような話はあるのではないかと思いました。


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