先制攻撃を仕掛けてきたのはサブカルだった
竹熊健太郎氏が「オタクvsサブカルはオタクの妬みから始まったもの」と言っているのは以前も見て知ってはいるのですが、違うよ、ぜんぜん違うよ!と、ここはひとつ主張しておきたいところ。
以前↑の記事で書いたように、私の認識では「オタクvsサブカル」ってのは、サブカルが優越感を得るためにオタクをダシに使い始めたことで始まった「消費センス競争」なんですよ。
サブカルってのは、「消費センスに優れたオレかっこいい」のナルシシズムを基本とする文化なので*1、「センスの悪いあいつら」という外敵を構造上必要とする文化なんですよね。で、その「外敵」としてターゲットにされたのがオタクだった。
サブカル側の人間である、中森明夫氏の「おたくの研究」や宮沢章夫氏の「80年代地下文化論」を読むと、当時のサブカルがいかに壮絶にオタクを馬鹿にしていたかが分かって非常にムナクソ悪い気分になれるのでオススメですが、それはさておき。
「"何故か"オタクはサブカルを敵視した」と竹熊先生は言うわけですが、"何故か"にはちゃんと理由があるわけですよ。「オタクvsサブカル」で、先制攻撃を仕掛けてきたのがサブカルだったからですよ。真珠湾で、パールハーバーだったわけですよ。
竹熊氏は、90年代のオタク差別全盛期を知らない
この辺の認識の違いは世代の違いなんだと思います。私は77年産まれで、90年代に思春期を送ったわけですが、この時代ってのはいわゆる「オタク差別」全盛期でして。
宮崎勤事件以降、オタクがスティグマとなり、「オタク系のアニメやゲームにハマっている」ことがクラスメイトに知れ渡っただけで、余裕でスクールカーストの階層が10ランク以上落ち、クラス内での発言力/政治力がマイナスのどん底まで急降下したあの時代。「オタバレ」しないよう、すべての中高生オタクが息を潜めて「隠れオタ」を余儀なくされたあの時代。
あの暗黒の90年代に、60年産まれの竹熊氏はすでに30代。「サルでも描けるまんが教室」もヒットを飛ばし、「オタクエリート」として業界で一定の地位を築いており、周囲の人間もサブカルエリート、オタクエリートの大人たちばかり。
そんな竹熊氏の周りには、「オタク差別」なんて幼稚な真似をする人間はいなかったし、「俺はアニメやマンガ好きだけどサブカル系だからオタクじゃないよ!」と、自意識の隠れ蓑や免罪符としてサブカルを使う「雑魚サブカル」もいなかったのでしょう。
それゆえ、竹熊氏的には「サブカルは、私の印象ではオタクを「気持ち悪い」とも考えてなかったと思う。どうでもよかったんですよ」という実感になるのだと推測しますが、私に言わせてもらえばそれは、「業界人オタク/サブカルエリート」という極めて限定されたフィールドの中だけの話であって、私が底辺オタとして思春期に学校で見てきた風景とはかけ離れた風景なわけですよ。
竹熊氏は、「自分の経験からしかモノを語らない人」というイメージがあり、それは基本的に美徳だと思うのですが、世代や立場が違う人間の視点や時代の感性に無頓着なところがあるように見受けられ、「主語が大きい話」をするには正直向いていないと感じます*2。
「自分の経験を語っているにすぎない」という点は私も同じなので、これは盛大なブーメランなのですが、ただ、竹熊氏はオタク界隈のちょっとした権威であり、「俺の周りではそうだった」にすぎない話でも、竹熊氏が語ると「正史」みたいに聞こえてしまう。それが「正史」とされてしまうのは、全然違う実感を同じ時代に感じていた別世代の私としては、非常にモニョる。
オタク差別は、主に「90年代のティーンエイジャー」という非常に狭い範囲で起きた出来事なので、90年代に思春期を送った世代*3以外には非常に実感が湧きづらい話であり、「被害妄想乙」と捉えられてしまうことも多々あると思うのですが、それは確かに「あった」話だと思うので、私は私の視点から観た歴史を、ここにこうして書き残しておくことにします。