ルミネCMへのその批判は差別という「本質」に対するものなのか?PC的正しさという「形式」に対するものなのか?

電車男」とおんなじやん…

togetter.com

ルミネのCMが女性差別だ、セクハラだと話題になっています。私も「異性ウケこそが人間にとって至上の価値!」みたいな価値観を押し付けられるのは本当にクソなことだと思うので、今回のCMにも心の底からの気持ち悪さを感じるのですが。

どうも今回の炎上には、心底乗り切れない私がいます。というのも、このCMで描かれている内容って、ひと昔前まで、いや、もしかしていまでも普通に流通している、恋愛至上主義的、恋愛消費主義的価値観そのものじゃないですか。それこそ、「電車男」なんかで描かれていたような。


私は、「電車男」は今回のルミネのCMと同じように、「異性に認められることこそが人間にとって至上の価値!異性に認められるために、自分を変えなければならない!」という内容の作品だと思います。でも、もし仮にいま「電車男」が放送されたとして、このCMを批判している人たちが今回と同じように、


電車男はオタク男性が女性に認められることを至上の価値とし、女性に都合がいいよう変化することが『正しい』という価値観を世間に広める、男性差別的、オタク差別的セクハラ作品なのだ!」


みたいな声を上げるとは、どうもあんまり思えないんですよ。なんで思えないのかっていったら、完全に私の偏見なのですが。


その批判は「差別」に対するものなのか?それとも「PC的正しさ」に対するものなのか?

正直なところ、今回あのCMに声を上げている方たちの中には「差別」を問題にしているのではなく、「PC*1的に正しくない」という形式的な部分に脊髄反射している方が多く混ざっているのではないかと、私は疑っています

あのCMで描かれた内容が、明確に女性差別としてセクハラとして、社会的に「悪」と認められているからこそ。そうした「社会的お墨付き」が得られており、いわゆる「PC的に正しくない」からこそ。「ルール違反」として迷うことなく嬉々として学級委員長的正義感を振りかざしに行っている方が多く混ざっているのではないかと、私は疑っています。


しかしそれは、PCという「形式違反」に対する批判であり、差別という「本質」に対する批判ではありません。


「異性から認められない人間はダメな人間だ」という抑圧には、女性だけではなく、男性も晒されています。今回の内容が、たとえば現状「社会的弱者」として登録されておらず、PC的な問題とはみなされない「モテない男性」を対象として描かれたとき*2、今回と同じように批判の声は上がっていたのでしょうか?

もし上がらないとしたら、あなたの批判は単に「PC的に正しくない」という形式的なものに対する批判であり、差別という本質に対する批判ではないといわざるを得ない。人間を傷つける可能性をもった同じ行動が、ある属性をもった人間に対しては「アリ」とされ、ある属性をもった人間に対しては「ナシ」とされる。それこそが、差別でしょう。



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*1:ポリティカル・コレクトネス。政治的正しさ。

*2:それこそ「電車男」のように。