幸せは「解釈」の問題。学歴別の生涯年収や婚姻率など統計上の「有利不利」とは別物という話

ta-nishi.hatenablog.com


前回の学歴記事の補足。↑のツイートであらかた言い切ってる感もあるんですが、もう少し。

学歴は幸せを得るための有用なツールではあるが、幸せそのものではない

まず大前提として、統計上のデータとして現れる客観的「有利不利」と、個人の主観的な「幸せ」は、別物なんですよね。前回の記事で話題にした学歴にしたって、生涯収入/婚姻率/就職先の質など、データで見れば高学歴のほうが低学歴より断然有利なのは、火を見るより明らかなわけです。

でも、それと幸せの問題は、別物。相関はあるけれど、やっぱり別物。なぜなら幸せとは、「状況そのもの」ではなく「自分が置かれた状況を本人がどのように認識するか」という解釈の問題だからです。


もちろん、高学歴や大企業正社員などの社会的ステータスや、そこから得られる高収入など諸々の恩恵は、個人の主観的幸せを高めることに、大いに役に立ちます。自分は優れているという有能感/有用感/優越感などを得ることができるし、お金があれば飢えることもなく物欲も満たせ、生活が潤い将来も安心。職業選択など、人生の節目における選択肢も広がる。学歴が幸せに繋がる有効なツールのひとつであることは、疑いようもありません。

ただ、これらはあくまで「幸せを感じる可能性が高い状況」を作り出すのに有利なだけであって、「幸せ」そのものではないんですよね。


私よりふた周り以上歳上の人生の先輩に、東大合格確実と言われた神童がいたんですが、彼はいわゆる「本番に弱いタイプ」で、本試験で緊張から本来の実力を発揮することができず、東大に合格することができなかった。

それでもその後、某大学で教授にまで昇り詰めたんだからたいしたものなのですが、彼は「本来の実力を発揮して東大を出ていれば、もっと上の大学で教授になれたのに…」という想いを捨てることができなかった。このことがトラウマとなった彼は、自らの無念を晴らすかのように息子に猛勉強を強い、高学歴を与えようとした。結果、息子は壊れてしまったと聞きます。

私から見れば、どんな大学だろうと教授にまでなれるなんて「天才」としか言いようがないんですが、彼はそれでは満足できなかった。「本来ならもっと上に行けたはずの自分」という失われた過去に囚われ、現状に幸せを感じることができなくなってしまった。


私がいう「幸せは解釈の問題である」とは、こういうことです*1。客観的に見てどんなに成功した、羨ましい状況にあったとしても、本人が主観的に満足できないのであれば、それは幸せではない。逆にどんなに劣悪な状況にあったとしても、本人が主観的に満足しているのであればそれは、幸せなのです*2

学歴にしろお金にしろ、幸せになるための有用なツールではありますが、それ以上のものではありません。それらを「持たざる側」になってしまったからといって、過剰に悲観する必要はないのです。

「○○でなければ幸せになれない」という呪い

私は、「人生は、なにより幸せに生きるためにある」という価値観を持っています。幸せ至上主義者です。これを実践するうえで、「○○でなければ幸せになれない」という思い込みは、非常に危険な思考パターンだと考えています。

例えば「高学歴でなければ幸せになれない」という価値観に囚われ、その思いがあまりにも強すぎた場合。万が一自分が低学歴に「落ちぶれて」しまったとき、自らの不甲斐なさや惨めさに、自分が耐えられなくなってしまうからです。

「いまの日本では、大学くらい出ておかないと幸せになれない」は幻想。90年代『自分らしさ』的個性尊重主義は、いまこそ再評価されるべき - 自意識高い系男子
低学歴=不幸という決めつけは、高学歴でなければ幸福ではないという『呪い』を子どもに植え付ける、非常に狭量な考えではないだろうか。


このような『呪い』にかかってしまった人間は、何らかのアクシデントにより「レールから外れた」人生を送ることになってしまったとき、とても危うい。本当に親が子供に伝えるべきはこのような危険な人生観ではなく、世間的価値観では「失敗」と見なされるような人生を歩むことになってしまったとき、自らの価値観で独自の幸せを再定義し、新しい道を歩んでいけるような柔軟な『強さ』ではないかと私は思う。


↑の『呪い』が極端な形で噴出したのが、2008年6月8日に起こった秋葉原通り魔事件の加藤智大と、その母親の関係でした。彼は幼少のころから母親に学歴信仰を叩き込まれましたが、高校で落ちぶれ、学歴社会から外れた「惨めな」自分の人生に耐えられなくなってしまったのです。

加藤智大の生い立ち【秋葉原通り魔事件】 - NAVER まとめ
完ぺき主義の母親は、常に完璧なものを求めてきました。...母親の作文指導には「10秒ルール」なるものもあったという。兄弟が作文を書いている横で、母が「検閲」をしているとき、「この熟語を使った意図は?」などという質問が飛んでくる。答えられずにいると、母が、「10、9、8、7...」と声に出してカウントダウンを始める。0になると、ビンタが飛んでくるというわけである。この問題における正解は母の好みの答えを出すことであったが、そこで母が求めていたのもやはり「教師ウケ」であった。


この様な状況で育った加藤智大被告は小中学校は成績優秀スポーツ万能で、母の期待に応え県立青森高校に入学するのですが、優秀な生徒が集まる高校の中で加藤被告は埋没してしまい成績も低迷し、母に暴力を振ったり部屋の壁に穴を空け、教室の窓ガラスを素手で割ったりする様になります。ちなみに入学当時の志望は北海道大学工学部だった。

ここまで極端な学歴信仰を持っている人間は稀でしょうが、「学歴がなければ幸せになれない」という思い込みがこうした危険性を孕んでいることは、頭の片隅で意識しておいて損はないと思います。

人生は、なにより幸せに生きるためにある

先にも書いたように、私は幸せ至上主義者です。学歴は幸せな人生を歩むための有用なツールですが、そこに執着しすぎてしまうことは、逆に不幸を産むリスクを高めることになると考えています。

これは、学歴に限りません。お金/恋愛/結婚/出産/就職。すべて幸せをサポートするツールではありますが、そこに過剰に執着してしまうことは、逆に不幸を招き寄せるリスクとなります。「すべての苦しみの根源は執着にある」と看破したお釈迦様、マジ偉大。幸せな人生を求めるのであれば、執着や煩悩は、可能な限り低く抑えておくことに越したことはないのです。


もっとも、こんな浮世離れしたことを言っている私ですが、たとえばホームレスになるレベルまで「世俗的価値観上の失敗」をしてしまったら、流石に自尊心を保っていられる自信がありません。なので適度な自尊心を維持できる環境はキープできる程度に努力しつつ、しかし世俗的な欲望に過剰な執着をもたないよう、心理的バランスをとった人生を歩んでいきたいものだと考えています。

それが、私が幸せに生きる道なのです。


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*1:この「解釈」は、個人史やそこで培った価値観を背景に、本人の意思を無視して半ば自動的に行われるものなので、「解釈」より「認知」と言ったほうが言葉としては適切かも。

*2:極論をいえば、新興宗教や麻薬にハマっている人間も、少なくともその瞬間は短期的に「幸せ」ではあります。