友達100人、できたかな

渇望


友達がたくさんいる人間に、なりたかった。社交的な人間に、なりたかった。人気者に、なりたかった。


幼少時代から青春時代にかけて、私の交友関係は「無残」のひとことだった。小中高と友人がまったくできず、かろうじて存在した数少ないそれは『パシり』『いじりいじられ関係』という名を与えたほうが相応しいような関係性だった。休み時間は寝たフリ、あるいは図書室の中に引きこもってやり過ごし、体育のペアパートナーは常に体育教師であり、修学旅行では『余り者』として別段仲良くもないクラスの地味グループに、お情けで入れていただいた。

世界が狭い10代の人間にとって、学校に居場所がないという状況は、耐え難い生き地獄だ*1。コミュニケーション能力に対するコンプレックスをこじらせた私は、高校へ通えなくなってドロップアウトし、フリーターとなって数年間を過ごした。


友達がたくさんいる人間に、なりたかった。社交的な人間に、なりたかった。人気者に、なりたかった。


なんとか社会人になって数年が過ぎたころ、私は自分のコミュ障コンプレックスに、耐えられなくなった。他人とコミュニケーションを取ること自体が自分には向いていないのだと私個人は感じていたが、最早そんな泣き言を言っている場合ではないと、我武者羅に努力を重ねた。

努力は、それなりに実った。

彼女ができ(このブログで度々登場する『例の彼女』である)、知人友人との人間関係も、以前よりはまともにこなすことが出来るようになった。


以前よりいくらかマシになったとはいえ、私の自意識は相変わらず自分のことを「コミュ障」と判定していた。彼女以外の人間関係が乏しく、友人も少なく、結婚式に誰を呼べばいいのかと考えては途方に暮れる、そんな自分だったからだ。



状況が変わったのは、ここ5年ほどのことだ。『例の彼女』と別れ、人生の目的を見失い、うつ病となり、時間を持て余し、途方に暮れていた私が久しぶりに人生から楽しみを感じ取ることができたのが、昔から続けているゲームをはじめとした趣味と*2、趣味仲間が集まるバーやスナックだった。

バーへ行き、酒を飲みながら趣味仲間と馬鹿話をしている間だけは、『例の彼女』のことを忘れることができた。時間があり、酒豪で金払いのいい私はバーの主人に気に入られ(もちろん、気が合ったということもある)、いつしかそこの常連となっていた。


常連としてバーに通っていると、いろいろな人間と、新しく知り合う機会ができる。そうした中で気が合った人間から別のバーやイベントを紹介され、そこへも通ってみる。そこでまた、新しいお気に入りの店や友人と出会う。新しいコミュニティに所属する。

そうしたことを繰り返すうちに、気がつけば私は、「友達がたくさんいる人間」になっていた。そしてそれに伴い、私は自分のことを「コミュ障」だとは思わなくなっていった…

…というのは、正確ではない。私のような人間が「コミュ障」を名乗るのはおこがましいと思うようになっていったと言うべきだろう。私自身の「中身」が、それほど変化したわけではないからだ。出会う機会という分母が大きくなれば、気が合う人間という分子も自ずと増える。ただ、それだけの話だ*3


友達がたくさんいる人間に、なりたかった。社交的な人間に、なりたかった。人気者に、なりたかった。

友達がたくさんいる人間に、なれたのかも知れない。社交的な人間に、なれたのかも知れない。人気者に、なれたのかも知れない。


もしかしたら私は、若かりし日にあれほど憧れた「あの自分」に、なることが出来たのだろうか?夢にまで見て想い焦がれた「あの自分」に、なることが出来たのだろうか?


…よく、わからない。

ひとつ確実に言えるのは、いまの自分自身の「リア充」な状況について、私自身はそれほど幸せな状況だと感じ切れてはいない、ということだ。

少なくとも、コンプレックスに塗り潰されたあの暗闇の中で、私が想像していたあの自画像と比べれば。

*1:90年代当時はインターネットも一般的ではなかったことも、世界の狭さを加速させた。

*2:まぁ『例の彼女』と別れた原因が、そもそも趣味熱が復活し過ぎてしまったことにあったのだが。

*3:そして人間関係で重要なのは、分母ではなく分子である。たとえば「恋人」という分子は、"2"以上は要らない。