発達障害当事者の生き辛さにとって本当に問題なのは、『病気扱いされているかどうか』ではなく、『差別されているかどうか』

80~90年代、ASDADHDは社会に包摂されていた…?


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↑の記事では、空気が読めない、落ち着きがないといった特徴を持ち社会適応に苦労する人達が、ASDADHD発達障害という「病名」を与えられ、精神医学の「治療」の対象となったことについての是非が書かれている。

1980~90年代において、空気が読めないこと・落ち着きが無いことは、精神医療に直結する問題ではなかった。今だったらASDADHDと診断されるような人々も、当時の社会に適応するのに苦労はしていただろうし、当時だったら、たとえば「オタク」というレッテルを貼られて敬遠されるぐらいのことはあったかもしれない。だとしても、空気が読めないこと・落ち着きが無いことが病気に直結することはなく、そのような人は、社会のあちこちにそれそのままに暮らしていたように記憶している。
 
私が通っていた小学校や中学校、私が属していた地域社会にも、今にして思えばASDADHDに該当する生徒はそれなりいたが、苦労しつつも、学校や教師や地域は彼らを包摂していた。彼らは変わり者や困り者と思われていたかもしれないが、病気だとは誰も思っていなかった。


どうなんだろうか。シロクマ先生の80~90年代に関する↑の見解は、いささか牧歌的すぎるような気がする。

私が記憶する90年代の光景は、もっと陰惨なものだった。空気が読めない、落ち着きのない、「今にして思えばASDADHDに該当する生徒たち」は、変わり者や困り者として社会からの偏見に晒され、「なぜ、『普通』にできないんだ!」という世間の怒りや無理解に、今よりもはるかに苦しんでいたと思う。

彼/彼女たちは、まったく社会に「包摂」などされていなかった。変わり者や困り者として、ただひたすら差別され、排除され、迫害されていた。それが私が持つ、90年代の記憶である。


当事者にとって、問題の本質は『差別』

シロクマ先生は、「ASDADHDは、いよいよもって、診断・治療されなければならない病気になって"しまった"」と書かれているように、これらの人々が「病気」と見なされるようになったことについて、あまりよい印象を持っていないようだ*1

けれども私は逆に、彼/彼女たちは、病気とみなされることにより、「病人」という形で社会に受け入れられ、理解され、「包摂」されるようになったのではないか、という印象を持っている。


メンタルヘルス系の病が「ケガレ」としてまだまだ強い偏見に晒されていた一昔前なら、「精神病」として扱われることは、確かに社会からの「排除」だったのかも知れない。しかしここ10年ほどで、精神病に関する世間の理解は、以前とは比べ物にならないほど進んだように私には感じられる。

そうした現在の環境で、ある属性の人達を「精神病」として扱うことは、「排除」というよりも、むしろ「包摂」という言葉を当てたほうが、適切ではないだろうか。彼/彼女等は、病名を与えられることにより、「病人」という形で社会に包摂されるようになったのである。


ある属性が「個性」なのか「病気」なのかは、時代によって移り変わる。例えばLGBTの人達は、現在は「個性」として扱われているが、「病気」として治療の対象となっていた時代や地域もあった。

しかし、個性か病気かという「呼び名」は、当事者の生き辛さにとって、実はそれほど重要なものではない、どうでもいいものなのではないかと私は思う。本当に重要なのは、その「個性」なり「病気」なりが、世間からの差別に晒されているかどうか、ではないだろうか。

もしその「個性」が世間から差別されているのであれば、その個性は当事者にとっては地獄だし、もしその「病気」が普通のこととして世間から受け入れられているのであれば、病気呼ばわりされたとしてもそれによって当事者が苦しむことはないからだ(それこそ『風邪』のように)。


そうした意味で、ASDADHD発達障害と呼ばれている人達にとって現代という時代は、ひと昔前に比べればずいぶん生きやすい時代になっているのではないか。そう、私は考えている*2

*1:あくまで治療が提供されるようになったこと自体は、当事者の支援として有益なものであることを高く評価している一方で、という話ではあるが。

*2:ブコメでも、id:nyaaat さんid:ganbarezinrui さん等のブコメをはじめ、当事者のそうした意見が優勢に見える。