現代社会に蔓延する「うっすら反出生主義」と、「産まされてきた」ことに対する契約破棄権としての「安楽死」

人間は「産まれてくる」のではない。「産まされてくる」

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↑「同意のないセックス」は比較対象として微妙とは思うものの、増田の言いたいことは分かる。要は同意も取れていないのにひとりの人間を勝手に世界に産み出し、下手をすれば娑婆における「生の苦しみ」に我が子を晒す出産という行為は親の身勝手であり非人道的な行いなのではないかということだろう。


増田の言いたいことは理解る。

実際、私が子供を持たなかった(持てなかった)理由のひとつに、「よほど万端の準備を整えてからでなければ産まれた我が子の幸せに親としての責任を果たせないと思ったから」というのはある。そして結局その「準備」は果たせないまま、私は出産のタイムリミットを迎えてしまった。

経済的な面でも精子の衰えや自閉症発症率等の生体的な面でも、40代中盤という年齢で子供を産むという行為は相当な蛮勇だと言わざるを得ない。私に限らず現在子供を持っておられる方でも、経済や年齢等の理由から2人目3人目は諦めているという方は多いだろう。

現代社会において出産という行為は、「子供を幸せにする能力を親が持っている限りにおいては」という但し書き付きでのみ祝福される。一昔前に流行ったTV番組『ビッグダディ』のような後先考えない貧乏子だくさんは、現代社会においては「虐待」として批判の対象になるのである。


つまり現代社会においては、すべての人間が「うっすら反出生主義者」なのだ。

一昔前までの日本はそうではなかった。人々はもっとなにも考えず本能のままポコポコ子供を産み、産みすぎたと思ったら口減らしと称して殺していた。殺さなくても幼くして命を落とす個体はいまよりずっと多かったので、後先考えずにたくさん産んでもそれほど困ることはなかった。

しかし、現代社会は違う。医療の発達により子供はあまり死ななくなった。人権意識の高まりにより、人間ひとりひとりがかつてより格段に大切に扱われるようになった。多産多死から少産少死へと時代は移り変わったのである。

人間ひとりひとりが大切に扱われ幸せに生きる権利を与えられた結果、「幸せに生きれない人間は可哀想だ」という考えが支配的になった。それに伴い出産に当たり「我が子を幸せにしなければならない」という親の責任は増大し、出産に対するハードルは上がっていった。核家族化による「人手不足」と高学歴社会化による「コスト増」が、これにさらなる追い打ちをかけた。これは、少子化の大きな原因のひとつだったと私は考えている。


産まれに合意を取ることができないことに対する、次善の策としての安楽死

話を戻そう。

冒頭の増田が疑問を持ったように、出産前の幼児はこの社会に産まれ出てくることに対して合意を示していない。人生が時に「産まれてこなければよかった」と感じさせられてしまうような、過酷で悲惨なものになる可能性を秘めた危険な代物であることは、みなさんもよくご存じのとおりだ。

そんな「危険な賭け」に本人の合意もなくサインを取らせてしまう出産という行為は実際、重篤な人権侵害であるということはできると私は思う。

しかし現実問題として、意思を持たない生前の幼児に生存の意思確認を取ることは物理的に不可能だ。そこで次善の策として立ち上がってくるのが「安楽死」である。人生のスタート地点で合意を取ることが不可能なのであれば、契約を破棄する権利=死ぬ権利を強化する以外、この問題への対策は存在しない。


安楽死の話をすると必ず出てくるのは「現代社会においても自殺は罪にならないのだから勝手に死ねばよい」という反論である。しかしこの反論には落とし穴がある。自殺の成功率と、苦痛だ。

上記ツイートにもあるように、自殺の成功率は低い(約37%)。残りの自殺試行者は死にきれず、重篤な後遺障害を負ってしまう者も少なくない。また、自殺にはほとんどの場合多大な苦痛が伴う。これら問題を克服し、苦痛のない確実な死を迎えることが可能な制度でなければ「安楽」死とはいえない。


人間がこの世の中に産まれてくるのは自らの意志ではない。一方的に「産まされてくる」のである。であればこそ、その一方的な契約は自らの意志で完全に自由に、なんの痛みも伴わない形で破棄できるものでなくてはならない。それこそが「フェアな契約」というものではないだろうか。安楽死はそのための権利となり得る「極めて人道的な」制度なのである。