『俺が被った痛みは差別だが、お前が受けた同様のそれは差別ではない』というフェミニストによる差別

女性に対する規範の押し付けは差別。では、男性に対する規範の押し付けは?

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↑について。

私はフェミニストではありませんが、女性差別を含むあらゆる差別は問題だと考えていますし、個人として可能な限り他者に差別を行わないよう注意しながら生き、不当な差別に反対していきたいと考えています。

そんな私が理解する差別の定義は、「特定の属性を持った人間が、偏見により不当な不利益に晒されたり、公平な扱いを受けられなくなること」です。フェミニズムは、この差別の中でも特に女性差別に抵抗していく理論や運動だと私は理解しています。差別反対運動の中の1部門、女性部門といったところですね。


今回、太田啓子弁護士の発言が批判された理由は、女性差別という自分たちが問題視する差別に過敏になるあまり、それ以外の差別をないがしろにし、当のフェミニストたちが批判してきたテーマと関連性がある差別を内包した動画を手放しに賞賛してしまったことです。

宮崎県日向市のPR動画は、確かに女性差別的ではない。しかし、太ったインドア男性を醜く描き、サーファーとして「成長」した彼の姿を美しく対比させる部分は、インドアをアウトドアより劣ったものとみなす「インドア差別」や、「男性かくあるべし」的なジェンダー規範を肯定し流布するものだ、と読み取ることもできるでしょう。

これは、フェミニストがメディアにおける家父長制的な女性の描かれ方を、「規範の押し付け」として批判してきたのとまったく同じ理屈です。この点を完全にスルーし、手放しでこの動画を賞賛してしまったことが、ダブルスタンダードだとして批判されている。


「規範の押しつけ」を差別として問題視するならば、女性以外に対する「規範の押しつけ」も同じように問題視するのが当然のハズです。もし、女性に対する規範の押しつけは差別だが、男性に対するそれは差別に当たらないと主張するならば、それは、フェミニストによる男性に対する差別なのではないか?この点が疑問視され、批判されているわけです。


『俺が被った痛みは差別だが、お前が受けた同様のそれは差別ではない』という差別

これはフェミニストに限らず、私も含んだ差別に反対する人間全員に言えることだと思うのですが、差別に反対する人間は、自分が特に問題視する差別だけではなく、他の属性の人間に対する差別についても同じくらい敏感になっておくことが必要だと私は考えています。


「俺が被った痛みは差別だが、お前が受けた同様のそれは差別ではない」と言ってのける行為。「特定の属性を持った人間が、偏見により不当な不利益に晒されたり、公平な扱いを受けられなくなること」という冒頭に挙げた差別の定義に当て嵌めるなら、これはまさしく、差別です。

これは、差別に反対する人間が絶対にやってはいけない、自分たちの主張を自ら否定する最悪の行為です。差別に反対しているにも関わらず、自らが行う差別には無頓着で省みない。自分の痛みにばかり敏感で、他人に厳しいダブルスタンダード人間。主張の正しさ云々以前に、こんな人間を、誰が信用してくれるというのでしょう?まったく説得力がない。そして、こうした事例を積み重ねることによって、実際に説得力も信用も失っていっているのが、現在のフェミニズムなわけです。

事実、私は女性差別に反対する人間なので、自分のことをフェミニストだと考えていた時期もあったのですが、今回のようなフェミニストを名乗る方々のあまりにも自己中心的な発言の数々を見て失望し、そう考えることをやめました。男女同権には私も大いに賛同しますが、男性差別主義者(ミサンドリスト)になるつもりはないからです。


差別とは、無自覚に行ってしまうものであり、「すべての差別に敏感になり抵抗する」ことは、言うは易し行うは難しの典型です。私も、無自覚に差別を行ってしまうことはあるでしょう。しかしその場合でも、「特定の属性を持った人間が、偏見により不当な不利益に晒されたり、公平な扱いを受けられなくなること」という差別の本質を理解している人間であれば、それを指摘されたとき、いま自分は差別行為をしてしまったと気付くことができるハズなのです。

女性、黒人、性的マイノリティ…社会的に「弱者」と認められている人間に対する差別にだけ差別のアンテナが反応するのだとしたら、その人物は本質的に「差別行為」を理解し反対しているのではなく、教条的に「社会的にいけないとされていること」を差別として丸暗記し、無思考に従っているだけなのでしょう。

今回の発言を見る限り、太田啓子弁護士はこのような「差別の本質を理解していない人間」なのだと見受けられ、差別に反対する人間のひとりとして、非常に残念に感じました。

私は、「社会的に認められた差別」だけではない、「差別行為」全体を嫌悪し、反対したいと考えています。それがあまりにも理想論的で、非常に難しいことであることは、重々承知しているのですが。


【補足1】「男性は男性で自分たちに対する差別に対抗するべき」について

今回私が書いたような意見に対してしばしば聞かれるのが、「男性は男性で、自分たちに対する差別に対抗するべきだ」というフェミニストの方の意見です。

これは確かに、一理あると思います。現実問題としてリソースは有限ですし、自分の痛みには強く反応し、他人の痛みには鈍感になってしまうのが人情です。であれば、自分の差別アンテナに反応したものに特化して差別撲滅運動を展開するということは、現実的な話だとは思います。

しかしその場合であっても、自分たちに対する差別を特別視し、他者に対する同様の差別をないがしろにすることは、自分たちの信用を大きく損なう愚行でしょう。自分たちの境遇を差別だと訴え闘ってきたフェミニストが、同様の訴えをする人間に「それは差別ではない」と言ってのけることは、自分たちの主張を自ら否定する行為だからです*1

今回の件に関して言うならば、「女性に対する規範の押し付けは差別だが、男性に対する規範の押し付けもまた、差別である。私達は自分たちの運動で手一杯なので手伝えないけれども、これもまた差別を内包した動画であり、問題がある。その点に気付かなかったのは、私の不手際だ」こうした態度が太田啓子弁護士らフェミニストには必要だったのではないでしょうか。


【補足2】「いま、社会的差別に晒されている弱者は誰なのか?」問題

↑の冒頭で私は「特定の属性を持った人間が、偏見により不当な不利益に晒されたり、公平な扱いを受けられなくなること」と差別を定義しましたが、これは、すべてのケースで必ず当て嵌まる定義ではないとも考えています。この前に、「社会的な負の偏見に晒されている」という前置きが必要でしょう。既に社会的に不当な状態に置かれているからこそ、それを助長する表現や行為が、差別として批判され得るのです*2


たとえば、「阪神タイガースファンであることを理由に入店を断る巨人ファンが集う店」があったとして。これは、「特定の属性を持った人間が、偏見により不当な不利益に晒されたり、公平な扱いを受けられなくなること」という定義に当て嵌めれば明らかに差別ですが、私はこれは差別だとは思いません。

なぜなら阪神タイガースファンは、社会的に負のスティグマを背負った属性ではないから。阪神タイガースファンを入店させないことは、あくまでその店の好みの話であって、阪神タイガースファンであることが、社会的に負のイメージとして共有されているわけではないからです*3


そして、社会的スティグマを押し付けられる属性は、時代によって変化していきます。たとえば、90年代のオタクは趣味に対する強い偏見による差別に晒されていたと私は考えているのですが*4、現在のオタクは差別されているとは考えていません。オタクが一般化され、スティグマではなくなったからです。逆に将来、阪神タイガースファンが被差別属性に転落する可能性も、ゼロとは言い切れないでしょう。

宮崎県日向市のPR動画の「太ったインドア男性」も、社会的な負の偏見を背負わされた存在だと言えます。だからこそ、あの動画は差別的であると解釈し得る。家父長制的な女性のイメージも、フェミニストにとっては対抗するべき負の属性だからこそ、差別的だと解釈されているわけです。


「いま、社会的差別に晒されている弱者は誰なのか?」これは、社会で常に議論され、更新されていくべきテーマです(この判断と社会的合意形成が非常に難しいわけですが)。そして、性別に対してこの話はどう適用されるべきものなのか?現代社会において、男性は常に強者であり、女性は差別される弱者なのか?

家父長制の中、ジェンダー規範が強い抑圧として女性に対して働いていたひと昔前であれば、これは、正しい主張だったのかも知れません。しかし、現代社会でもこれは本当に自明なことなのか?男性は必ず強者で、女性は必ず弱者なのか?この点に、私も含んだ多くの人間が疑問を抱くようになっていることが、今回の炎上の背景に存在するのではないでしょうか。



*1:もちろん、実際に差別ではないケースもあるでしょうが、今回のケースはこれまでフェミニストが使ってきた理論から考えれば、フェミニズムの観点からも差別的と批判しうる動画だったでしょう。

*2:これを表現する言葉として『権力勾配』というものがあるようです。

*3:この差別の定義は、昔どこかのフェミニストの先生のブログで読んだ話で私も感銘を受けたんだけど、URLを忘れてしまった。

*4:『オタクvsサブカルは、ありまぁす!』と、オタクサブカル老害エリート文化人のみなさまに言ってやりたい - 自意識高い系男子