『聲の形』が見事に描き切った、コミュニケーションの両義性

思春期、私たちは他人に興味がありすぎた

アニメ映画、『聲の形』を観た。原作も読んでいたけれど、映画版のほうが物語として解りやすく、より大きく心を揺さぶられる作品だったように思う。

この作品は、聴覚障害やいじめといった際どいテーマを扱った作品だが、それを主題としたいわゆる「社会派作品」ではない。これらテーマを通じ、思春期の若者特有の繊細なコミュニケーションを、最良の側面から最悪の側面まであらゆる角度から描写した「青春群像劇」だ。


この作品を観て私が思い出したのは、思春期の時代、私を含めた周りの誰もが持っていた、「他人への強すぎる興味と執着心」。そしてそれが引き起こす、コミュニケーションの面倒臭さだ。

この年頃の少年少女たちは、皆、他人に興味がありすぎる。クラスメイトの何気ない一挙手一投足にすら過剰な意味を見出しては面白がり、他人からの自分への視線に過剰な不安を掻き立てられる。

クラスの中で自分は浮いていないか、権力者は誰なのか、立ち振舞いは演じるべきキャラに合っているか。それが彼ら彼女らの最大の関心事である。それがどこにも逃げ場がない「学級」という環境に起因するものなのか、思春期特有の繊細な感性に拠るものなのかはわからないが*1、とにかく思春期の少年少女たちは、そうした心象風景の中で生きている。


そんな思春期の集団に投下された、聴覚障害を持つ少女である硝子は、クラスメイトにとってあまりにも異質な存在だった。ある者は彼女を玩具として扱い、ある者はその境遇に同情し、ある者はそこに偽善を感じ取る。クラスの秩序は乱れ、「元凶」となった硝子に対し怒りを露わにする者すら現れる*2。高校生になった将也と仲間たちが再び集う鯉の生簀は、その教室の象徴だ。小学生時代の将也たちにとって硝子は、クラスの秩序に混乱を招き寄せる、狭い生簀に投げ入れられた「餌」だった*3


もし将也たちが、私たち大人と同じくらい「他人に興味がなかったら」。あるいは「他人とのコミュニケーションに絶望していたら」。硝子も、その周りの者たちも、あそこまで互いに傷つけ合うことはなかっただろう。解り合えないということを解り合い、適切な距離感を保ち踏み込まず、「気を遣った」コミュニケーションをとることが可能だっただろう。その意味で、子供は残酷だ。

しかし同時に、もし将也たちが、私たち大人と同じくらい「他人に興味がなかったら」。あるいは「他人とのコミュニケーションに絶望していたら」。あそこまで濃密な時間を共に過ごすことはできなかっただろう。それは、「楽」になるために他人と距離を置くという処世術を覚えてしまった私たち大人にとって、ある側面では羨ましく、別の側面では非常に恐ろしい、両義的な感情を抱かせる情景だ。


深く踏み込めば傷つけ合うが、距離を離せば味気ない。それがコミュニケーションの本質である。


積年の人生経験のうちに他者に対する諦めを知ってしまった私たち大人と違い、子供たちは心が枯れていない。そのことが持つ、強さと弱さ。功と罪。温かさと残酷さ。『聲の形』は、そうした思春期特有のコミュニケーションにまつわる両義性を見事に描き切った、素晴らしい傑作青春映画だった。


余談

作中の硝子の母親(特に序盤)と、将也たちの小学校時代の担任教師のコミュニケーションにおける振る舞いは、まさに私がこの記事で書いた「他人とのコミュニケーションに絶望し、解り合えないということを解り合った」、大人のそれである。

一見、他者に対して心を閉ざし、冷徹に振る舞っているように見える彼・彼女だが、あのような「大人の人格」に至るまでのなんらかの苦悩がこれまでの人生であったのだろうと、それとなく劇中で感じさせる空気感があったように思う*4。その物語も、いつかこの作品のスピンオフとして読んでみたいものである。



*1:おそらく、両者の相乗効果だろう。

*2:聴覚障害を患うことになったことについて、硝子には一片の責任もないにも関わらず、だ。

*3:その生簀の鯉たちに、成長した硝子が餌をやっているというのは、将也が口にする「いいパン」という言葉と併せ、なんとも暗示的だ。

*4:硝子の母親なら離婚、聴覚障害の娘とそれに対する世間の偏見やいじめとの闘い。メガネ教師ならいくら情熱を燃やして指導してもまるで言うことを聞かない生徒に対する諦め、などが容易に想像できる。