健康も楽しみも失ったうえ、誰からも必要とされず社会的コストにしかならない老後の人生など送りたくないので、60歳を超えたすべての国民に『安楽死権』を与えて欲しい

『社会的コスト』でしかない老後など、送りたくない

私も昨年、ついに40歳を迎えた。40歳といえば、人生80年のちょうど半分だ。自然と『死』について考えることが増えてくる。

死について考えれば考えるほど、現代社会において、長生きはリスクでしかないと思えてくる。年末田舎へ帰省し、ますます老い、死期の差し迫った祖父母を見て、その気持ちはますます強くなっていった。


身体も頭脳も精神も老い衰え、ちょっとそこまで外出する程度の健康すらも失い、痴呆が進み、人生を楽しむ気力も無くなり、ただただ、生きているだけの人生。自分の食い扶持すら稼げなくなり、介護や老人ホーム等で、健康面でも金銭面でも家族や周囲に負担をかけながら、若い世代が支払ってくれている年金で「生かしていただいている」だけの、社会にとって、ただただ、コストでしかない人生。

そんな、生きているだけで負債となるような人生を、私は送りたくはない。こんな灰色の老後に備え、どれくらいの期間、いくら必要になるのかすら分からない貯蓄など、私はしたくない。

私も老後に備え人並みの貯蓄はしているが、こんなくだらない老後の人生のために、人生の花盛りである若い時代のカネを貯めておくことに、なんの意味があるのだろう?それよりも、健康で人生を楽しむ余力がある若いうちに、自分や周囲の人間の為に思い切りカネを使うことのほうが、よほど有意義なカネの使い方ではないだろうか?


「身体と頭脳が健康なうちに、老後の蓄えなど一切気にせず全財産を消費や投資に回して若い時代を充実させながら生き、自分の健康と食い扶持が維持できなくなった瞬間、すべての財産を使い切って『安楽死権』により楽に死ぬ」

これが、私が望む理想の死に方だ。安楽死さえあれば、個人は老後の不安もなにもなく、「現在」を目一杯全力で生きることができるのである。なにしろ老後は「来ない」のだから。


それでも生き恥を晒しているのは、結局、『死』があまりにも恐ろしいからでしょう?

私と同じように考える人間はそれなりにいると思うが、それでも「生き恥を晒す」老人が多いのは、結局のところ『死』があまりにも恐ろしく、苦しいからだろう。現代社会で人間は、簡単には死なせてもらえない。

もしも、安楽死が制度化され認められれば、それを利用したいと考える老人は、想像以上にたくさんいると思う。なにしろ『死』の一番の難点である「苦しみ」から解放され、安らかにあの世へと旅立てるのだから。

安楽死を選択する老人が増えれば、当然、年金等の高齢化社会の問題も緩和されるだろう。老後の不安もなくなり、個人は若い時代をより有意義に使うことができるようになる。社会も個人も、誰もが幸せになれるwin-winなシステムが、安楽死なのだ。なぜこれが制度化されないのか、不思議でならないくらいよいことずくめである。


安楽死に問題があるとすれば

個人にとっても社会にとってもメリットしかないように思われる安楽死だが、もし問題があるとすれば、この制度により「自ら安楽死を選ばない老人」へ、世間から批判の目が向けられる可能性が高いという点だろう。

言うまでもないことだが、安楽死はあくまで「権利」であり、利用するもしないも完全に個人の自由でなくてはならない。社会で生きているのは、私のように後に残すものが何もない、刹那主義的な人間ばかりではない。養わなくてはいけない家族がいる人間や、子供や孫の成長を見守りたいと願う人間、家族や周囲から心から愛され幸せな老後を過ごす人間など、長生きを願う人間も、当然いる。そうした人間がこの制度を使わないこともまた至極当然の権利であり、本来、批判される言われは一切無い。


しかし姥捨て山のエピソードが示すように、自らの食い扶持を稼ぐことも出来ず、周囲からの世話を必要とする老人は、コストとして本音では社会から厄介者として扱われてきた。

もし、この制度により自ら安楽死を選び、社会から退場することが「美徳」とされる世の中になれば、それをしない「コスト」でしかない老人が批判の対象とされることは、大いにあり得る話だろう。「なぜお前は安楽死しないのか?人様に迷惑をかけることしかできない生にいつまでもしがみついていて、恥ずかしくないのか?」と。

安楽死はあくまでも個人の権利であり、それを行わない人間が批判されるようなことは、あってはならない」

この認識を社会的に徹底させることが、この問題を防ぐためには絶対に必要なのだが、たとえば未だに根強く残る「結婚の権利を行使しない人間」に対する世間の厳しい風当たり等から察するに、この問題を予防することは、なかなか難しい話だろう。