恋愛が結婚/出産と結びつけられ社会的なものとなった瞬間、世界はセカイと化しその存亡は私たちひとりひとりの手に委ねられた

恋愛はもはや個人的な営みではない

plagmaticjam.hatenablog.com

大前提として人間は社会の駒である側面と、そうでない側面を持っている。仕事などは前者の側面のほうが強いが、恋愛は後者の領域なので社会的駒としての文脈で語るとおかしなことになる。

↑のようにid:plagmaticjamさんはおっしゃり、本来個人的営みであるハズの恋愛が、「取引」「市場」という社会的営みとしてのみ語られる弱者男性論及びフェミニズムの現状に違和感を表明されている。

しかし、私の考えは少し違う。確かに恋愛そのものは個人的な営みだと思う。しかし現代社会においては恋愛が、結婚およびその先にある出産という次世代再生産システムに組み込まれてしまった。それゆえ現代の恋愛はミクロのレベルでは個人的営みだが、マクロで見れば社会的な営みとして語られざるを得ないのである。

70年ほど前、戦中までの日本はそうではなかった。恋愛と結婚の結びつきは、非常に緩やかなものだった。1940年の日本ではお見合い結婚が主流であり、恋愛結婚/お見合い結婚の比率は13.4%/69.0%。これが2015年には87.7%/5.5%と完全に逆転している*1

現代日本社会では、ほとんどの人間が恋愛を経て結婚しており、婚外子が一般的ではない日本では、恋愛というハードルを越えなくては結婚、ひいては出産まで辿り着けない。このことがいま日本社会で大問題となっている少子高齢化や非婚化に結び付いていることは、いまさら言うまでもないだろう。

非モテ」の増加は少子高齢化の元凶(のひとつ)であり、社会的な問題である。このことは間違いない。

しかし問題は、ミクロのレベルでは恋愛はやはり個人的な問題であり、社会制度が介入できる領域ではないということである*2。カネの再分配はできても、女性の(あるいは男性の)再分配は不可能だ。それは現代社会の基本ルールである個人の自由と人権に反する。戦後、恋愛を通した配偶者選択の自由が急速に進み支持された背景には、かつての不自由に苦しめられた数多の男女が存在していたことを忘れてはならない*3

しかし社会というマクロのレベルで見たとき、ミクロレベルでのこうした個人の配偶者選択の自由の行使は、やはり大問題なのである。それこそ、社会の存続を揺るがしかねないほどの。


次世代再生産が恋愛という個人の領域に委ねられた瞬間、世界はセカイと化した

結局のところ現代の少子高齢化の問題は(少なくともその一部は)、「次世代再生産」という社会維持に必須の機能を「恋愛」というあまりにも個人的なものに依存してしまった点にあるのだと思う。

かつての社会はそうではなかった。結婚はイエとイエの間で取り決められる社会制度であり、個人の意思が介入できるものではなかった。男性には女性が、女性には男性が、文字通り「あてがわれて」いた。次世代再生産は個人の領域ではなく、社会の領域だったのだ。社会の領域だった故に、この次世代再生産システムは安定して機能した。1960年の生涯未婚率は、男女共に5%未満である*4

恋愛を取り入れ、次世代再生産が社会的領域から個人的領域に移行してから事態は変わった。id:plagmaticjamさんもおっしゃる通り、恋愛とは狂気である。非常に不安定で移り気なものである。得手不得手の個人差も激しい。そのようなものに社会の根幹である次世代再生産を委ねてしまったのだから、これは文字通り狂気の沙汰という他はない。


次世代再生産という社会の根幹が個人の手に委ねられたことで、世界はセカイと化した。私たちひとりひとりの個人的な恋愛が、「少子高齢化」という形を伴って世界の存亡に直結するようになったのだ。まるでセカイ系の小説のように。

非モテ」ひとりひとりが子孫を残せなかったとして、その影響は極小さなもののように映るかも知れない。しかし現在、40代男女の4~5人に1人は独身である*5。決して少数派とは言えない。彼・彼女等に、次世代再生産の任はもはや期待できないだろう。少子高齢化の流れは、ますます進行して行く。

彼・彼女等を自己責任として切り捨てることは容易い。しかしその結果待っているものは、「非モテ」ひとりひとりの怨嗟の念が結集し、少子高齢化という巨大な塊となってセカイを滅ぼす未来なのかも知れない。かつて某有名漫画作品に登場した「元気玉」ならぬ「怨気玉」として。