「いい子」ほど、実社会と乖離した学校教育の価値観に苦しめられる
赤木智弘氏は、「学校教育の失敗」なのだと思う。↑のまとめが言う「フェミニズム的良識」は、「学校教育的良識」というのがより正確だと感じた。
私の学生時代、恋愛という行為は、学校教育では推奨されていなかった。「モテ」や「セックス」に至っては、「不純異性交遊」という言葉に象徴されるように、「悪」とすら感じられる扱いだったように思う。化粧、スカート丈、髪型など、異性に自分を魅力的に見せる「オシャレ」全般が否定されていたのも、この一貫だ。
恋愛は不良の嗜みであり「悪い」行い。大人になったいまにして思えばそれは、
- 子供に悪い虫をつけたくないという親の要望。
- 遊びやセックスに奔放になり、管理しづらく面倒くさい生徒が増えることへの学校側の予防。
という、完全な「大人の都合」によるものだったのだが、小中学生である私たちにそんなことが想像できるハズもなく、ただなんとなく「モテ=悪」なのだという価値観は内面化されていった。大人のいうことを疑いなく聞く「素直ないい子」ほど、その傾向は強かった。
しかし、大人になっていざ社会に出てみれば、そこから見える光景は、学校教育で身につけた価値観とは似ても似つかないものだった。モテる男はデキる男としてむしろ尊敬され、モテない男はキモいと見下され軽蔑された。「いい子」は思う。
「モテるあいつらが、悪いあいつらがチヤホヤされ尊敬される世の中は、間違っている!」
こうした価値観を植え付けられた人間は、いざ恋愛したいと思っても、身動きがとれなくなってしまう。だって、「モテ=悪」だから。学校教育で、そう教わってきたから。いまさらモテようとするなんて、「敵」の思想に屈することだから。
学校教育で培った建前の価値観と実社会の価値観は、食い違っている。学校教育で「悪」と教え込まれ否定されたものが、実社会では大手を振ってふんぞり返り、権力を握っていることが往々にしてある。
私たちは成長の過程で「世間に揉まれ」、そのことに気づき、価値観を修正することを暗に求められている。学校教育の価値観を真に受けすぎてしまった「いい子」や、世間に触れ価値観を修正する機会に恵まれなかった人間ほど、その齟齬に強く苦悩することになる。
表面的には赤木さんはフェミニストを目の敵にしているけれど、赤木さんが本当に恨んでいるものは「学校教育」なのではないかと私は感じる。
「お前たちが世間ズレした妙な価値観をオレに植え込んだせいで、こんなことに…!」
それが赤木さんの怒りの本質なのではないか。そしてその「学校教育」に含まれるもののひとつが、私たちアラフォー世代が義務教育を受けた80年代にもてはやされた、「フェミニズム的教育」だった、そういうことなのではないか。
左翼的な戦後民主主義教育を目の敵にするネトウヨも、根は同じ理屈なのだろうと、私は推測する。フェミニズムも分類上は左派なので、赤木さんは「フェミニズム特化型ネトウヨ」といえるのかもしれない。
恋愛に対する現在の学校教育の価値観は、時代錯誤すぎる
現在の学校教育の恋愛に対する価値観は、実社会に対してあまりにも時代錯誤だと私は思う。
学校教育がモテを「悪」としておきたい理由は、前述した「大人の都合」によるものだが、恋愛が結婚に、ひいては家族形成へと繋がる現代社会において、「モテ=悪」というメッセージを学校教育が発することは、現実と乖離しているというだけではなく、恋愛下手な独身者を増やし、少子高齢化により社会を根本から崩壊させかねないほどの力を持った恐ろしい愚策だと、私は思う。
それでも見合い結婚が主流であり、人生における恋愛の重要度がいまよりもずっと低かった時代には、なんとかなっていたのかも知れない。しかし、時代は変わった。一億総恋愛結婚時代である現代に、「モテ=悪」と時代錯誤な価値観を学校教育は若者に叩き込み、恋愛下手な若者を量産し続け、そして結果はご覧のありさまだ。
恋愛結婚時代である現代、恋愛のスキルも家庭科と同じように*1、人生の必須スキルとして学校で教育するべきだと私は思う。
「恋愛を教育で教えることができるのか?」
その効力には疑問があるかも知れない。しかしその結果少なくとも学校教育から「モテ=悪」というメッセージが発せられることはなくなり、赤木さんのようなタイプの「不幸ないい子」が産み出されることはなくなるだろう。
【ブコメにお返事】「学校の理想論 VS 生徒の知恵」の対立関係を通じ、「本音と建前」を学ばせるのが、現在の学校教育の構造だが…
赤木智弘氏は、フェミニズムというよりも学校教育的価値観を真に受けすぎた「不幸ないい子」なのだと思う - 自意識高い系男子b.hatena.ne.jpどんなバンカラ高校行ってたんやろ、普通に学生時代からモテる男は尊敬(というか羨望)されてたけどもなぁ…
2015/03/25 08:35
↑羨望されていたというのはおそらく、学校(教師)側ではなく、クラスメイトなど生徒間の評価ではないでしょうか。クラスメイトとの関係は、学校教育的価値観ではなく、世間の価値観に属しており、このふたつは対立関係にあるものです。
学校側が世間ズレした理想論を振りかざし、生徒側が「世間の知恵」でそれをすり抜けていく。こうした対立関係の間でバランスをとる中で、私たちは「本音と建前」という世間知を学んでいく*2のですが、学校教育的価値観を真に受けすぎ、世間知を学ぶ機会を得られず大人になってしまう子供がまれにおり、それが今回書いた「不幸ないい子」タイプです。
「朝礼の時間、まわりが騒ぎまくる中、ひとり真面目に校長の話を聞いている生徒」的なイメージを思い浮かべていただければ、解りやすいでしょうか。
オシャレや男女交際や自由を楽しむことを「不良」と教え込んだ20世紀の教育の成果が今すごく出てると思う。あと、そういうことを楽しまなかった人が次の世代に呪いをかけ続ける。
— アコムギ (@akomugi) March 25, 2015