『浮気をわざわざ告白するなんて自己中心的すぎる。墓場まで持って行って欲しい』。私の苦手な言葉です。

浮気の告白は自己中なのか問題

「浮気をわざわざ告白するなんて自己中心的すぎる。墓場まで持って行って欲しい」

私の苦手な言葉です*1

上述した言葉を特に女性からしばしば聞くことがあるが、私はこの言葉とその背景にある価値観がとても苦手である。この言葉の意味するところは要するに

「知らなければ済んだ問題をわざわざ表面化するな。貴様が告白したせいで我は気分を害し、貴様との関係性に軋轢が生まれ、別れる/別れないの自己判断の責任を押し付けられる形になった。要するに貴様は自らの罪悪感に耐え切れず、責任を我に押し付けスッキリしたいという事だろう。なんと自己中心的な人間か。死ね。今すぐに死ね。我の眼前で腹を割き臓腑を供物として捧げてみせよ!」

ということだろう。この記事ではこれを仮に「浮気墓場主義」と呼ぶことにする。


浮気墓場主義者はこう言う。「浮気の告白によってふたりの関係に軋轢が生まれた。それにより私は深く傷ついた。今後のふたりの関係をどうするのかを判断する責任も生まれた。すべてはお前がいらんこと言ったせいだ」。なるほど、確かにこれらはすべて事実だろう。

しかしこの時「お前」がとった行動は、はたして「自己中心的な行動」なのだろうか?

この問いに対しほとんどの方は「Yes!Yes!Yes!」と拳を振り上げ即答するかも知れない。しかし、私はそうは思わない。そう私が考える理由について、今回の記事では書いてみようと思う。


浮気墓場主義者 vs 自己判断主義者

まず私は「自己判断」をこの上なく重視した価値観を持っている。これを仮に「自己判断主義」と呼ぼう。

自己判断主義は、現代社会システムの根幹を成す価値観である。現代日本の社会システムも、これをベースとして生成されている。自己判断が存在するからこそ行為の結果に対する「責任」が発生し、それゆえたとえば犯罪者を刑罰に問うことができるようになる。精神鑑定の結果心神喪失が認められた場合刑が軽くなるという司法制度は、まさしくこの自己判断が不可能な存在の責任を問うことはできないという考えに立脚しているわけだ。

よりよい自己判断を行うためには「完全にオープンにされた正しい情報」が必要となる。良い情報も悪い情報も、すべてが完全にオープンに開示されている前提で、個人ははじめて正しい自己判断を行うことが可能となるのである(ゆえに他者に虚偽の情報を与えることは詐欺罪として罪に問われることになる)。


自己判断主義者は自らが自己判断する事をとても重視する価値観を持っているので、他者の自己判断も同じように尊重したいと考える

この視点から浮気の告白を見た場合、この行動は「相手の事を考えたとても誠意ある行動」と解釈することができる。すべてを白日の下に晒し、それでも自分と付き合う選択を続けるのかそれとも別れるのか。自己判断主義者は判断に必要な正しい情報を完全に開示している。それも自らが不利を被ることも厭わず、相手のために!なんという献身!なんという尊い自己犠牲!いままさに神はそなたを天へと導かん!!


このように、浮気の告白を浮気墓場主義者は「自己中」と解釈し、自己判断主義者は「誠意」と解釈する。この相違の根本には「思いやり」に対する価値観の違いが存在する。浮気墓場主義者は"相手を傷つけないこと"を「思いやり」だと定義し、自己判断主義者は"相手が正しい判断を行えるよう情報を与えること"を「思いやり」だと定義しているのである。

自己判断主義者は「相手のためを思い」良いことも悪いこともすべてを相手に開示する。しかしこの「誠意」は浮気墓場主義者からは「自己中」にしか見えない。浮気墓場主義者のとっての「思いやり」は自己判断ではなく"自分の気持ち"あるいは"ふたりの関係性の継続"という「利害」にあるからだ。

こうしてふたりの気持ちはすれ違う。誰も悪気があってそうしているわけではないにも関わらず。なんという悲劇!なんという悲しいすれ違いなのだろう。


セカイ系自己中 vs シャカイ系自己中

視点を変え哲学を補助線にすれば、浮気墓場主義者は功利主義的であり、自己判断主義者はカント倫理学的だと解釈することも可能だろう。

<くらしの中から考える>うそは絶対にダメ?:東京新聞 TOKYO Web
うその善悪は、哲学の大きなテーマの一つでもある。西洋哲学が専門の三重大准教授の田中綾乃さんによると、現代の日本社会の感覚に近いのは、英国の哲学者ベンサムらが唱えた「功利主義」。事実と違うことを言ったとしても、それによって誰かが助かるなど、結果が良くなるのなら問題ないとみなす考え方だ。

これに対し「どんな事情があっても、うそは道徳的に許されない」と主張したのが、ドイツの哲学者カントだ。条件付きでうそを認めてしまうと、言葉への信用が失われ、社会が成り立たなくなると訴えた。田中さんは「功利主義の考え方だけだと、言葉が軽くなりすぎる恐れがある。相反する考え方を知り、比較していくことが大切」と話す。

カント倫理学に立脚すれば、浮気墓場主義者の考えは自分達の利益のために嘘をつき自己判断という社会基盤をないがしろにする行為であり、これこそが「自己中」だと言うことができる。この場合何に対する自己中なのかといえば、「社会」に対する自己中だ。

一方、自己判断主義者の自己中は「利害」に対する自己中だ。自分たちの利害よりも社会の在り方を重視する自己判断主義者のこの考えは、功利主義者にとって完全な裏切り行為なのである*2


ゼロ年代論壇風の言葉を使えば浮気墓場主義をセカイ系自己中、自己判断主義者をシャカイ系自己中と表現することもできるだろう*3。そしてゼロ年代論壇が再三指摘したように、真実はセカイ系/シャカイ系いずれでもなく両者が混じり合った場所…「社会」にこそ存在する。


「浮気を墓まで持って行って欲しいという」という浮気墓場主義も「浮気を包み隠さず話すことが誠意である」という自己判断主義者も、どちらも極論だと私は考える。大切なのは表象された相手の「思いやり」が、どのような思想に立脚しているのかを理解することだ。セカイ系のあなたが自己中だと批判した行為が、相手のシャカイ系的思いやりから行われた行為なのかも知れないし、その逆のパターンもあるだろう。

「思いやり」の在り方は多種多様だ。それぞれの立場の多様な「思いやり」を理解することは、社会をより深く理解することに繋がる。そしてその理解は、他者に対する「寛容」「優しさ」の基盤に繋がる力なのではないか。そう、私は考えるのである。


反応を受けて

「浮気した時点で誠意がない」ってのはそりゃそうで筆者も100%同意するところなんですがw、事後の行動としての浮気の告白は「自己中」なのか「誠意」なのかという点を、ピンポイントで筆者は論点にしたいわけですね。トロッコ問題的な思考実験と考えてみてください。

ちなみに自己判断主義の立場から言えば、浮気した時点で告白確定なので、別れたくないなら「そもそも絶対に浮気しない」一択になります。


*1:メフィラス構文 (わたしのすきなことばです)とは【ピクシブ百科事典】

*2:この考えは「就活」や「営業」においても同じことが言える。功利主義の立場に拠ればこれらは「善」であるし、カント倫理学の立場に立てば「悪」である。

*3:セカイ系は「私」あるいは「私とあなた」の狭い関係性が社会の全てであるかのような世界観。シャカイ系は自らの狭い宗教的信念をそのまま社会に接続してしまうような世界観。どちらも現実の「社会」を無視した自閉的在り方として東浩紀宇野常寛ゼロ年代の批評家により批判された。