婚活の場はなぜあんなにもつらいのか、マルクスを使って解説する

Q:婚活の場は、なぜあんなにもつらいのですか?

A:人間が物象化され、疎外に晒される場だから。

…と書けば私がなにを言いたいのか、マルクスを少しでもかじった事のある君のような勘のいいガキなら一行で理解できる話ではあるのですが、理解できなかった方のために3000字程度の補足を。


「物象化」は『資本論』で有名なカール・マルクスが唱えた概念で、人間関係が物と物の関係のように扱われる事を言います。言い換えれば人間を「機能」として扱うこと。人間関係には「機能」の部分と「情」の部分がありますが、この「機能」として他者を扱うことが「物象化」です。

[例]
同僚の山田さんが転職することになりました。このとき「山田さんがいないと仕事が回らなくなる。困ったな」と感じる部分が「機能」(=物象化)。「山田さんがいなくなって寂しいな」と感じる部分が「情」。


資本主義と能力主義現代社会で生活する私たちは、会社など労働の場でもっぱら「機能」としての自分を切り売り(=物象化)して生活の糧を得、家族や友人らプライベートの場で「情」としての人間関係を営んでいます。

で、どうも人間は他者から「機能」としてのみ扱われることに苦痛を感じるらしいんですね。「機能」としてだけではなく「情」を持って扱って欲しいと人は願ってしまう。これは「機能は交換可能だが、情は交換不可能な唯一性を持つものだから」ではないかと考えられます。

山田さんが転職しても、山田さんの仕事としての機能は別の誰かが穴埋めしてくれるでしょう。しかし山田さんがいなくなった寂しさは山田さん固有のものであり換わりが効きません。交換可能な「機能」を認められるよりも、交換不可能な「情」で認められる方が、承認のレベルが深いんですね。私たちが失恋にダメージを受け、我が子を喪った親があれほどまでに嘆き悲しむのは、換わりが効かないこの世界で唯一無二の存在を喪ってしまった事に対する悲しみなのです*1


他者にとって交換不可能な存在であるという事は、イコール「存在を承認されている」という事です。

山田さんがどんなに仕事ができたとしても、それは山田さんでなくても遂行可能な仕事です。年収1000万円の田中さんは、年収2000万円の鈴木さんで置き換え可能でしょう。東大出身のTさんの上には、ハーバード大出身のHさんが存在する。

機能で他者を査定する限り、この世の中には必ず上位互換機が存在します。である以上それは承認として不完全なものとしかなり得ない。学歴でも年収でも容姿でも、あなたより上の存在が手に入るのであればそれで置き換えた方がよいという話になってしまうからです。


機能を常に他者と比較され、条件付きの承認しか得られない苦痛。これをマルクスは「疎外」と呼びました。資本主義は分業化により社会の効率性を高めますが、それは人間を機能として扱うことに他ならず、必然的に人間を疎外するのです。

ボルト&ナットのしくみで 組みこまれる街で
爆弾にはなれない OH NO!
Dreamin'/BOOWY

BOØWY Dreamin' 1224 / LAST GIGS - YouTube

ちなみに精神医学の世界では、疎外はすなわち承認の問題として語られます。子供を自分の道具=機能として扱い、条件付きの承認しか与えない親…いわゆる「毒親」問題です。



「情」を育む場である家庭のパートナーを「機能」で選んでしまう事が、賢い選択だとはたして言えるのか?

ここまで書いてきたことを念頭に置いて婚活を眺めると、この場所がまさしく物象化と疎外の場であることがわかります。

anond.hatelabo.jp

↑の増田は初対面の婚活女性から時計のブランドを査定され、乗っている車を問われ、「現在の年収は900万くらいってことですけど、昇給の予定か転職の予定はありますか?」とまで追及されますが、このとき増田はカネヅルという機能として完全に物象化されています。グランドセイコーは増田でなくてもつけれるし、年収900万円も同様です。オーデマピケをつけた年収1500万円の男性が現れたなら、この女性は即座にそちらへ鞍替えすることでしょう。交換可能性しかない完全なる疎外。これはつらい。増田の絶望もわかる。死ぬ。怖くて泣いちゃった。

このような基準で男性を選択することは、もちろんこの女性の自由ではあります。しかし考えてもみてください。この記事の前半で私は、家庭とは「情」としての人間関係を営む場所だと書きました。この資本主義社会において私たちは機能を切り売りして生計を立て、他者からの絶え間ない物象化と疎外に晒されることを強いられている。その社会からの数少ない避難所である家庭の中までを、物象化と疎外が横行する打算的な場にしてしまうことが、賢い選択とはたしていえるでしょうか?


婚活と同じような物象化と疎外の場には「就活」が挙げられます。就活もまた企業が学歴やコミュニケーション能力で学生を物象化し選別する疎外の場です。しかし企業にはそもそも人間が機能として活躍する場所であるという前提が存在します。就活もまた疎外の暴力ではありますが、企業の目的と手段は合致している。しかし、家庭と婚活の関係においてはどうでしょう?

資本主義社会の中で、私たちは物象化の暴力から逃れることはできません。そこからの数少ない避難場のひとつである家庭におけるパートナーまでをも、機能で選択することが賢い選択だとは私には思えない。情をもっと重要視するべきでしょう。

そして情を構築するにもスキルが存在します。「人を裏切らない」「ギブ&テイクの精神を持つ」などの誠実さや、「一緒にいると安心する/楽しい」「共に笑い合える」などコミュニケーションの相性がそれです。家庭という情を育む場のパートナー選びとしては、これら情的要素を基準にした方が合目的といえるのではないでしょうか(もちろん家庭には機能としての役割もあるので、情「だけ」でも困るわけですが)。


とはいえこれまでの人間関係で「情」を構築できなかったから婚活してるんだもんね…

ここまでマルクスの物象化と疎外の概念を下敷きとして、婚活のつらさについて考えてみました。物象化と疎外の嵐吹き荒れる現代社会からの避難所である家庭においては、機能よりも情を重視したパートナー選択をすることが重要であり、婚活においても合目的だと私は考えます。

…とはいえここまで書いてきたようなことは、多くの方は百も承知だと思うんですよね。

情をベースとした人間関係を人生で自然と構築できた人間は、婚活など行わずとっくに結婚している。これまでの人生で情的人間関係を構築できなかった人間だけが、藁をも掴む思いからやむなく機能でパートナー選択を行う婚活の場に出てきているわけで、つまるところ婚活しなくてはならなくなっている時点であなたはすでに結婚適性という面においては「手遅れ」で「終わってる」存在だということなのかもしれません。

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*1:新しい恋人や子供で穴埋めすることも多少はできるでしょうが、それは喪った恋人や我が子と同じものとはなり得ません。