いやいや、ばかげているな。読み返してみて思うに、今日は本当にばかげたことを書いてしまった。
これは、ゲームが忘れられていくことが問題なのではなく、忘れられることを悲しく思い過ぎている(今の)私自身が問題なのだろう。ほとんどのゲームファンは、自分が今プレイしているゲームが10年後にどのぐらい忘れられるものかを一切気にせずに遊んでいるし、それが健全な姿勢だろう。ところが今の私は忘れられていくこと・忘れていくことに憂鬱になりすぎていて、不健全だ。案外、こういうのも更年期的な心象変化なのかもしれない。最新のゲーム・最新の漫画・最新のアニメと向き合っていてそれぞれに感心しているはずなのに、最近の空模様のように気持ちが晴れない。
↑そのようなばかげた感傷に浸りたくなる夜には、花譜さんを聴くとよいのですよ、シロクマ先生(隙花譜語)。
『花女』(花譜)
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『平家物語』を引き合いに出すまでもなく、この世のすべては諸行無常だ。猛き者のみならず、弱き者も賢き者も愚か者も権力者も男も女も当たり前に滅びる。
いつの世も人々はこの諸行無常に対し、寂寥と諦念を以って接してきた。バーチャルシンガー花譜が唄う『花女』という楽曲もまた、諸行無常に対する寂寥を唄った平家物語の系譜に連なる作品である。
人間関係に傷つきトラウマを負った「黒花譜」*1が人間不信の最中「彼」に出会い恋に落ち、変化する自分に戸惑い、最終的に自らの変化を受け入れ「いままでの私」に寂しさと共にさよならを告げる物語。それが『花女』だ。
『花女』において「花」は人に変化をもたらす新しい世界への扉の象徴として描かれる。その扉は「彼」のようなポジティブな世界へ通じるばかりではなく、「黒花譜」のようにネガティブな世界へと「私」を誘う要因にもなり得る危険な扉である。
陰においても陽においても「花」は「私」のアイデンティティとなり想い出として心に積み重なってゆく*2。そして人は手に入れた「花」にドライ加工を施し、少しでも長く自身の元へ留めようとする。
だってそうでしょう?すべてが諸行無常であるのならば、あの日あの時あの瞬間、私が感じた喜び悲しみ怒り苦しみ涙感動は一体なんだったというのか?あの日あの時あの瞬間、私が感じた喜び悲しみ苦しみ怒り涙感動のすべてがひとえに風の前の塵に等しいというのであれば、人生の意味とは一体なんだというのだろう?
人として極めて当たり前の叫び。だがその叫びも諸行無常の真理の前にはまったくの無力だ。時代が時間が忘却が。それに伴う人間とその関係性の不可逆な移り変わりが。花を枯らしドライ加工を砕き、すべてを無に帰してゆく。
確信が持てないまま
すれ違う日々も増えた
あの日初めてあげた花びらも
年季が入って色落ちたああそうか永遠なんてないんだ*3
どんなにどんなに加工しようが花は枯れるし
私たちもシワを作っていつか土に帰る
紡いだ日々も培った笑顔も何もかもがいつかは消える
嗄れて枯れ落ちて全て消えるなら私はどうする?
「私はどうする?」この問いに作品は回答する。
もう時間なんて必要ない
「時間」とは過去と未来だ。過去も未来もいらない。大切なのは「いま」だ。必要なのは「いま」だ。すべては喪われ無に帰る「からこそ」大切なのは過去でも未来でもない「いま」なのだ。ここに至って白花譜はかつて自身のアイデンティティであった黒花譜との別れを決意する。
たとえ嗄れて枯れ落ちて全て消えることが分かり切っていたとしても「花」の美しさは。そこから私が感じ取った愛情とか友情とかそういう何かじゃ計り知れない心が打ちひしがれたあの不確かな情景は。「いま」この瞬間だけはこれほどまで色鮮やかに本物なのだから。
間違ってるなら、教えてほしい。
しきたりなんかはいらない
世間体も忘れ去った
花束を持って君の元へ
それだけでいいんだ