『自由』が『虚無』と化した先の人生の生きがいについて(あるいは個人主義と共同体主義の狭間で)

恥の多いモラトリアム人生を送ってきました

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生きに生きて40歳、俺らは結構長く生きた - シロクマの屑籠

少なくとも思春期をこれ以上延長できないぐらいまでは生きることができたのだ。

シロクマ先生の記事の↑のような一節に目が止まった。私はいま44歳だけれども、一般的な同年代よりずいぶんと長く思春期を延長させてしまったなぁという自負(と負い目)を持っている。

私は、仕事よりもプライベートを優先させるスタイルでこの歳まで生きてきた。最低限の自分の仕事をこなして早い時間に帰宅し、夜の街に繰り出しては行きつけのバーで酒を飲み、音楽を浴び踊り、適当な雑談にふける。あるいは映画館へ行く。自宅で本を読み、ゲームで遊ぶ。私の30代はそうして過ぎ去っていった。

それはまさに、思春期モラトリアムの延長だった。楽しい毎日だったと思う。大学生のような私のこの生活スタイルは、基本、いまでも変わっていない。

しかしここ数年、この思春期モラトリアム的生活スタイルに限界を感じることが増えてきた。老化による感受性の摩耗が原因なのだろう。


老化による感受性の摩耗と、モラトリアム人生の相性の悪さ

老化による感受性の摩耗。それは要するに、「音楽を聴いても以前ほど心を動かされなくなる」「映画や漫画に昔のように夢中になれなくなる」という、中高年の多くが体感しているであろうあの現象だ。


人は、歳をとればとるほどに「充実」を感じるためのハードルが上がっていく。小学校低学年のあの日。あの頃の私たちは机の上を箸が転がっただけで笑い転げ、そこから「充実」を感じ取ることが可能だったハズだ。「机上を箸が転がること」。それは当時の私たちにとってノストラダムスに匹敵する空前絶後の大事件であり、その衝撃はクラスメイト全員の爆笑により驚きを以て迎えられたのである。

翻って現在の私たちおっさんに、彼・彼女らと同じ芸当などできよう筈もない。あの幼少期のみずみずしい感受性を、私たちおっさんは完全に喪ってしまった。「机上を箸が転がること」。それは私たちおっさんに対して「物理法則であるなぁ」以上の感銘をもたらさない。感受性の摩耗により、人は「充実」を得るために必要なコストが年々上昇していってしまうのだ。


なぜ人は歳を重ねる毎に感受性が摩耗し、そう簡単に「充実」できなくなってしまうのだろう?

脳内物質やホルモンの分泌バランスの変化という生物的必然なのかも知れないし、人生経験を重ねたことによる慣れの問題なのかも知れない。コンテンツの多くは若者向けに作られているから、中高年にとっては「not for me」になってしまうという社会的影響もありそうだ。


だが理由がなんであるにせよ、コンテンツをはじめとした日常生活のあらゆる場面から新鮮さが失われ、「充実」を感じ取れなくなってしまうという人類の老化の性質は、思春期モラトリアム的な生き方とはなはだ相性が悪い。

モラトリアムの本質は「自由」にある。自由を楽しむ為には日常生活のあらゆる場所から「充実」を感じ取るみずみずしい感受性が不可欠だ。その感受性を喪った瞬間、自由は何の意味も持たない真っ暗な「虚無」へと変質する。自由を持て余すようになってしまうのだ。

お気に入りの服を着て、憧れのあのクラブへ遊びに行く。あのレストランへ食事に行く。それだけで自分が特別な存在になれたと感じることができた(あるいは勘違いすることができた)若き日のあのみずみずしい感受性を、いまの私はもはや持ち合わせていない。かつてあれほど輝かしく見えたモラトリアムの「自由」はいまや「虚無」へと変貌し、私の人生を退屈で覆い尽くそうとしている。


実際のところ、モラトリアム的な人生を実践するミュージシャン等サブカル文化人の中には、40代50代で人生の限界を感じ鬱になってしまう方が少なくない(書籍にもなっている*1 *2)。これは、彼・彼女らの人生を特徴づけていた「自由」が、加齢からくる感受性の低下により「虚無」に変質してしまったことが大きな一因なのだろう。

id:phaさんはブログやTwitterで人生に飽きた、虚無を感じるということをしばしばおっしゃっているけれど、それもこの話と重なる話であるように、私には感じられる。




「自由」が「虚無」と化した中高年における人生の「充実」「生きがい」

著作やインタビュー・ブログ等を拝読する限り、id:phaさんは自由を愛するとても自立した人間のように私には見受けられる。大学職員になったものの仕事が性に合わず、ギークハウスを立ち上げ、それにも飽きるとそれまで積み上げてきたモノに執着することもなくひとり暮らしをはじめたというid:phaさんのこれまでの人生は、気ままな自由人という呼び方が本当によく似合う*3

しかしこの自由な気ままさは、頼るべき親密な他者の不在…孤独と隣り合わせの気ままさだ。自由と孤独はイコールではないし、共同体と親密もイコールではないけれど、それでも自由な人生は、共同体のしがらみからの解放と引き換えの孤独を呼び込みやすい。孤独な人生は充実も生きがいも、すべて自給自足で調達しなくてはならないという厳しさを孕んでいる。

若いうちはいい。みずみずしい感受性で、世の中のあらゆる物事から「充実」や「生きがい」を引き出すことができる。しかし中年期以降、感受性の衰えの中で「充実」「生きがい」を自給自足して生きていくことは、段々とむずかしくなっていく。


そうなったとき人間の生きがいとして最後まで生き残るのは、結局のところ他者との関係性ではなかろうかと私は思う。マズローが「所属欲求」と呼び、コフートが「理想化自己対象」と名付けたあの欲求だ。

個体としては脆弱なホモサピエンスが、共同体を成すことにより地球の覇者とまで成り上がった遺伝子の記憶が関係しているのだろうか?私は自由を愛する個人主義者なので共同体的なしがらみは好きではないのだが、そんな私でさえ組織の一員として働きチームとしての成果を成し遂げた時の達成感や一体感には、やはり人間としての本質的な「喜び」が含まれているように感じられてしまう*4


そうした意味で家族や会社といった伝統的共同体は、悔しいけれどよくできている。生殖や生存に組み込まれ社会システムの一環として機能しているのみならず、組織内での役割と貢献という形で人間としての根源的欲求である所属欲求や承認欲求をも満たし、外部から自動的に「餌」のように人間に生きがいを与えてくれるのだから*5

そうしたある種精神的福祉ともいえるシステムの外で最後まで虚無に押し潰されず個人として充実した人生を全うするためには、相当な内発的「強さ」が必要となるのだろう。


さっきも言ったが私は自由を愛する個人主義者なので、こうした人間個人の、自分自身の「強さ」を信じて生きてきた。そしてそれを自らのモラトリアムな生き様を通して実践してきた。しかし私は少々自分自身の「強さ」を買い被りすぎていたのかも知れない。それは若さゆえの奢りだったのかも知れないとも、最近はよく思う。

個人主義的人生と共同体主義的人生。対立する人生観の振り子の狭間で、私たちはどのようにバランスを取り生きていくことが最適なのだろう?この問いに正解はない。個人の特性によっても、人生の季節によっても、時代によっても答えはちがうだろう。

無論、私自身にとってのこの問いに対する回答も結論も、いまだ見い出せていない。