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自意識高い系男子。アラフォー。
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父親が、ゴミ屋敷を作るタイプの人間だった

人生 心理 社会

ゴミ屋敷を作る、我が父親

先日、久しぶりに実家へ帰ったら、また父親がリサイクルショップでいらん家電や家具を大量に買い込んで、家の中がひどいありさまになっていた。

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*1

何10年前のモノかもわからない2槽式洗濯機、熱伝導が非効率な冷蔵庫やクーラー、MS-DOS用プリンタ*2、座る人間もいない会議用のパイプ椅子とパイプ机のセット、錆びまくった扇風機…使う当てもないこうした大量の「ゴミ」が、4LDK2階建ての実家一面を、ところ狭しと埋め尽くしている*3

世間では、「断捨離」と称して旦那の大切な趣味のコレクションを捨てる鬼嫁の話題が定期的に炎上しているが、我が家では逆に、大量のモノを貯めこむ父の扱いに、心底苦慮している。


父は、モノを捨てることができない。その上「安いモノ」が大好きだ。趣味はリサイクルショップ巡りで、「安い」と感じたモノを見つければ、「それは本当に必要なモノなのか?」「調べればもっといいものがあるのではないか?」「家に置き場はあるのか?他のインテリアと調和するか?」「そもそも先日同じモノを買わなかったか?」など、普通の人間が買い物するとき考慮することを、一切顧みずに購入してしまう。

「無料」という言葉も大好きだ。勤め先で「ゴミ」として廃棄されることになった椅子や棚、プリンタなどがあれば、父は「もったいないから」という理由で、後先考えずなんでも貰ってきてしまう。「勤怠用タイムスタンプ押し機」を持ち帰ってきたときは、家庭でそんなモノを何に使うのかと、流石に目眩がしたものだ。


父のこの性分に、私たち家族は昔から悩まされてきた。無限に増え続ける、ゴミ、ゴミ、ゴミ。しかも父は、それらゴミを捨てると激怒するのだ。「俺の『宝物』を捨てるな!」と。このセリフを聞いたとき私は、ああ、TVでときたま話題になる「ゴミ屋敷」はこの手の人間が作るのかと、心底納得したものだ。


何度か、説得を試みたこともある。必要もないモノを、使わない/使えないモノを、安いという理由だけで買ってくるのはやめてくれ。置き場もないし、処分するのに手間も労力もカネもかかる。そもそも、あなたが買ってきた/貰ってきたもので、実際に活用しているものなんてほとんどないじゃないか、と。

しかし父は、「安いときに買っておけば、いつか必要になったときに使うことができる。必要になったときに定価で買うよりも、このほうが得だ」と自らの合理性を主張し、聞く耳を持たない。

「技術の進歩により機能や使い勝手が向上し、新しいモノのほうがコストパフォーマンスがよくなる場合もある」「古いモノは消耗品やドライバが手に入らず、使えなくなる場合もある」「"いつか必要になったとき"の"いつか"は来ない」「4LDK建売の我が家に、こんな大量のモノを置いておく場所はない」

こうした視点が、父にはない。これらのことを指摘しても、「そんなことはない!」の一点張りで、怒り狂うばかり。


こうしたやり取りを経て、父のこのハタ迷惑な習性は、私たち家族から完全に呆れられ、諦められ、放置されることとなった。幸い(?)私たち子供は家を出、母親は死去し、実家にはいま、父一人しか住んでいない。他に迷惑する人間もいないのだから、私も父の好きにさせておくことにしている。父が死んだら、業者にでも頼んでまとめて処分してもらうつもりだ。本当に、無駄金だが。


父は、半世紀前の戦後の価値観を生きている。

モノ余りの現代日本で生きる私たちからは、まったく理解の及ばぬ父の行動と価値観だが、父の育った時代背景と環境を考えれば、それなりに納得できる部分もないことはない。


父は現在65歳ほどで、長野県の山奥の、農家の息子として産まれてきた。戦後でモノがいまよりずっと貴重で、技術革新もゆっくりだった時代。農家の広大な屋敷の蔵に、「いつか使うかも知れない」という理由で特売品を貯めこんでおくことは、それなりに合理的な行動だったに違いない。

なにしろ「置き場」は無限にあるのである。実際、父の実家である長野の蔵には、「いつか使うかもしれない」家電や家具が大量にしまい込まれているが、生活空間までそれが侵食してくることはないので、困ったことだと感じることはない。

父が考える「合理性」は、この「戦後長野の農家の合理性」なのだ。しかしそれを「現代日本埼玉郊外の建売住宅」で実践しようとすること。これが、完全な誤りなのである。


また、父が生きた時代はいわゆる「高度経済成長期」である。白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれ、庶民の憧れの的となった時代。父もまた、これら家電を「宝物」として高嶺の花を見る眼差しで見つめていたに違いない。

時は流れ、技術の進歩によりこれら家電は安価に大量生産されるようになったが、若い父が感じた洗濯機や冷蔵庫に対する憧れは、そのままの形で残された。そんな父が、リサイクルョップで数100円の捨て値で売られる「宝物」を見たら、どう思うか?

「かつて憧れたお宝がこんなに安く手に入るなんて!まるで夢のようだ!!\(^o^)/」


かくして、いまとなってはゴミと化した骨董品のような家電を、「宝物」として喜々として収集するひとりの老人が誕生した。時代も環境も違う現代の埼玉県で、半世紀前の長野の農家の「合理性」を発揮される身内としては堪ったものではないが、父の行動原理はおそらくこのようなものである。

なぜ父が、現代社会の「合理性」に適応せず、半世紀前の「合理性」をいまだに引きずっているのかはわからない。同じ時代を生きても、古い価値観を捨て、現代社会の価値観に適応して生きている人間はたくさんいる。正直なところ、父にもそう生きて欲しかったという想いはある。

しかし、そうはならなかった。である以上、私たち家族にできることは、運命を受け入れ、半世紀前の価値観の中で生きるこの老人を、遠くから生暖かく見守ること。ただ、それだけなのである。

*1:画像はイメージです。

*2:ドライバやインクなど、どうやって入手するつもりなのか…

*3:しかも1台だけではなく、2台も3台も同じモノがある。