長男と女性は大学に行かせないことが常識だった、1965年ごろの長野県山村の話

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↑元の話題とはあんまり関係ないんだけど、一連の地方と学歴の話の中でふと思い出した話題があったので今日はその話でも。


私の母方は兄母弟の3兄妹なんだけど、みんなそろってとても頭がよかったらしく、実際、弟は早稲田大学を卒業している。その弟氏曰く、「勉強では兄ちゃんと姉ちゃんにはとても敵わなかった」とのことなんだけど、その早稲田弟よりも優秀だったらしい「兄ちゃんと姉ちゃん」は高卒だ*1

これはなぜかというと、母の実家である長野県山村では、当時(1965年ごろ)長男は農家を継ぎ女性は嫁に行くというのが人生の既定路線だったから。どうせ家を継ぐのに、どうせ嫁に行くのに、学歴なんてあってもしょうがない。当時、母の父(私の祖父)はじめ田舎の人間たちはそう考えていた。


当時の田舎の常識に照らし合わせて考えてみれば、確かにこれは合理的だったのだと思う。農家の仕事をするのに学歴なんて必要ないし、嫁に行くにしても同様だ。祖父にしてみれば、むしろ一番可哀想なのは継ぐ家もなく嫁にも行けず、外に出て戦わなくては生きていけない弟だったのだろう。だから世間で戦う武器として親心として、せめて大学には行かせてやった。祖父はそう考えていたのだと思う…

…というか正月等で帰省すると祖父本人がよくそう言っていた。母は大学に行きたかった男女平等を支持するリベラリストだったので、この事に恨みを持っており毎回口論になっていたけれど*2


家を継ぐことや嫁に行くことが生まれながらに定められていることは「不自由」なのか「特権」なのか。学歴をつけ外に出て戦わなければ生きていけないことは「自由」なのか「可哀想な持たざる者」なのか。一概には言えない難しい問題だと思う。

しかしこの問題に「本人の意思を尊重することが一番大切」と回答するのが「リベラル」ということだと私は思う。長男や女性が大学へ行き外で戦ってもよい。次男が家を継いでもよい。性別問わず結婚してもしなくてもよい。どんな結論だろうとすべては本人の意志であり自由である。それが「リベラル」ということなのだと私は思う。


ちなみに長野県山村の農家で「嫁に行く」とは「専業主婦になること」ではなく、「外では男たちと共に田に苗を植え畑を耕し、家では家事一切を行いながら子育てや老人介護を並行して行う過酷な無償労働に従事すること」を言います。農家にとって「嫁」とは「労働力」だったのですよ…



大学に行かせてもらえなかった母はその後お見合い結婚をし私を含む2人の子供を授かるのですが、その物語は↓の記事に続きます。
ta-nishi.hatenablog.com

*1:弟が兄と母を立てるために盛っていた可能性はあるが、兄も母もそれなりに優秀だったことは確からしい。

*2:長男は農家を継ぐことになんの抵抗もなかったようだ。