ひとは努力では幸せになれない

ひとは、自分が持っていないものにこそ価値を見い出す


私、小中学生のころ、ものすごく勉強ができたんですよ。小学校ではテストで90点未満なんてほぼとったことなかったし、中学でも常に学年10位以内には入っていた。家で勉強なんて全然やらなかったし*1、塾にも通っていなかったし、宿題もしょっちゅう忘れるような人間だったのに。

理由は簡単で、うちの祖父が小学校の教師だったので、入学前から家で勉強を習っていて、小学校レベルの勉強は入学前に全部済ませてしまっていたっていうだけの話だったんですけどね。

そんな私にとって勉強っていうのは「できて当たり前のこと」で、優越感と執着とか、そういう対象では全然ないんですよ。

前回書いたように私はコミュ障だったので、高校ではそれが原因で不登校になり、そのうえ勉強習慣がまったく無かったことから落ちこぼれ、勉強に関してはクラス最下位まで転落しましたが、それで落ち込むことはまったくありませんでした。私はそこに、一切執着心を持っていませんでしたから。


想像ですが、これと同じことが、「幼いときから呼吸するようにモテてきた人間」にも言えるのではないでしょうか。そういう人間にとって、「モテること」は「当たり前のこと」で、優越感を感じるとか執着心をもつとか、そういう対象では無いのではないでしょうか。そういう人は、ある日なにかのキッカケで急に「非モテ」に転落したとしても、そんなことは意にも介さず平然としているのではないでしょうか。

「モテ」でも「勉強」でも、その当人にとって「当たり前のこと」は、持っていても嬉しくもなんともないし、失ったとしても何も感じないのではないでしょうか。それが、ある人間にとっては羨望の対象で、ノドから手が出るほど欲しいものだったとしても*2


劣等感は努力を産み、努力は執着を産み、執着は攻撃性と恐怖を産む

勉強にはまったく執着がない私でしたが、コミュニケーションに関する問題については、人一倍強い執着心を持っていました。コミュ障だった私は、これに関しては本当に劣等感が強かったし、人気者への嫉妬心や、スクールカースト下位の人間への同族嫌悪も凄かった。「勉強がいくらできたって、人気者になれないんじゃ、モテないんじゃなんの意味もない」いつもそう思っていました*3

勉強ができる私のことを羨ましいと感じる人間も、いたとは思います。実際、そんなことを言われたこともあります。「勉強できても、別にいいことないよ」そんな風に、私は答えた気がします。


人間は、(当人にとっては)「呼吸をするように当たり前のこと」ではなく、劣等感や不全感を持っている対象にこそ、価値を見出すのでしょう。それを得んがために、努力をするのでしょう。

しかし、その努力は執着を産みます。執着は、努力しない他者への攻撃性や、喪失への過剰な恐怖として表面化されます。


ある時期私は、コミュ障を改善するために、努力をしました。すべてを投げ打ったと言ってもまったく過言ではないほどの、血のにじむような努力をしました。その結果、自分でもびっくりするほどの、高嶺の花といえる恋人を得ることができました。

しかし、その恋人と別れたとき、喪失感の大きさのあまり、私は壊れました。うつ病になり、立ち直るまでに5年もの歳月を必要としました。努力の大きさがそのまま執着の大きさとなり、喪失のダメージの大きさとなったのです。


仏教には詳しくないのですが、お釈迦さまは人間の欲望を「煩悩」と呼び、克服すべき「悪しきもの」だと考えたと聞きます。私は、この考え方が理解できる気がします。努力とは、欲望が具現化したものです。ひとは努力では幸せになれないと、私は思います。

*1:テスト前の「ぜんぜん勉強やってないよー」が社交辞令だとはつゆ知らず、私は本当にぜんぜん勉強やっていませんでした。

*2:日本人にとっての「食料」と、飢餓国に暮らす人間にとっての「食料」の違いを思い浮かべるといいかも知れません。

*3:「学校の勉強なんて社会ではなんの役にも立たない」みたいな風潮もありましたし。