30代中盤のどん底の時期を脱し、ここ数年、自分の人生が幸せなものだと感じることが多くなってきた。「ありのままの自分」のままで自分が認められる「居場所」を持つことができたからだと思う。
思春期のころ、私はいわゆる「天然のいじられキャラ」として通っていた。この周囲の「いじり」を、若く自意識旺盛だった私は、自分が馬鹿にされ見下されているのだと感じており*1、そんな自分の天然な性格がとても嫌いだったし、自分を変えれないことに情けなさも感じていた。コンプレックスを持っていた。
三十路に入るまでの私は、このコンプレックスから脱却することを人生の最大の目標にしていたように思う。私は「普通」の人間になりたかったので、コミュニケーション能力を磨き、見た目に気を使い、恋人をつくり、流行や時事ネタを追いかけた。そうして「世間」と融合することで私は「普通」になったと感じることができ、「自信」を取り戻すことができた。
世間に擬態することで「自信」を取り戻した私だったが、それは同時に「自身」が損なわれていくことと表裏一体だった。30代前半に起きた「あの出来事」。あれは、20代に築き上げた自分と本来の自分との矛盾と齟齬が、ついに表面化した出来事だったのだと今にしてみれば思う。
それから数年の迷走期間を経て、いつの間にか私は、「天然のいじられキャラ」の昔の自分に戻っていた。ただ昔と違うのは、自分のこのポジションを「愛されている」「美味しい」と感じ、楽しめるようになったことだ。
「結局、自分は自分でしかいられない」という諦観と開き直り。20代の「修行」の成果により、「普通」もそこそこにこなせるようになったことによる「自信」。周囲の人間も大人になり、簡単に他人を見下したりはしなくなったという環境の変化。そしてなにより、出会いに恵まれたこと。
かつて、自分が嫌いだった私は、自分の中の嫌な部分を他人から見えないよう隠すことに必死だった。しかしいま、私の周りにいる友人たちは、私の嫌な部分を知りつつ、そこも含めて私を愛してくれていると感じる人間ばかりだ。もちろん、世の中には自分とはソリが合わない人間というものもいる。しかしそうした人間から嫌われたとしても、それはもう、仕方がない。そう思えるくらいの気持ちの余裕を持つこともできるようになった。
こうして周囲の人間から愛され、自己肯定感をもらった結果、欠点も含め、本当の意味で私は自分自身を受容することができるようになったように思う。
紆余曲折あったが、いま自分がいる場所に、私は満足している。結局人間は、自分に出来ることしか出来ず、そうこう足掻いているうちに然るべき場所へ辿り着き、そこで人生をまっとうすることしかできない生き物なのかも知れない。そうしていま、心底幸福だと感じることができる場所に立つことができている私は、本当に幸運な、幸せ者なのだと思う。
すばらしい、日々だ。
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*1:周りの人間も子供だったこともあり、事実、侮辱や見下しを含んだ「いじり」を受けていたと思う。