「いまの日本では、大学くらい出ておかないと幸せになれない」は幻想。90年代『自分らしさ』的個性尊重主義は、いまこそ再評価されるべき

いまの日本では、学歴は個人の人生や幸せをそこまで大きく左右しない

anond.hatelabo.jp

↑「子供は自分たちと同じ程度に裕福な生涯を過ごせなければならない」「大学くらい出ておかないと子供は幸せになれない」といった親側の意識があり、それが子育てにかかる前提となるコストを過剰に引き上げ、結果少子化の一因になっているのでは?という話。同意。

そもそも「大学くらい出ておかないと子供は幸せになれない」という前提の部分に、私は大いに疑問がある。大学進学は幸せな人生の必須条件ではないと、高卒の私自身が日々実感しているからだ。


私は大学に通っておらず、最後に出たのが無認可の専門学校なので公的な最終学歴は「高卒」ということになるが、そのことで損をしたとか惨めな思いをしたという記憶がない。

そんな私なので、「子供を大学にも行かせられない人間は親になる資格がない」とでも言いたげな上記記事のブコメの論調には強い違和感を覚えるのだけれど、自分や周りに大卒以上の高学歴な人間しかおらず、低学歴な人間のリアルを知らない人間は、先入観から「低学歴=不幸」という発想になってしまうのかも知れないな、と思った。


私の家族や親戚には、中卒高卒の人間がそれなりにいる。私自身が高卒だし、8人いる従兄弟/兄弟のうち2人は高卒。弟に至っては中卒だ。しかし彼ら彼女らが、早稲田や上智など一流大学を卒業した他の兄弟*1に比べて特別不幸だったり貧乏な人生を歩んでいるかと言えば、そんなことはない。全員仕事を持ち、家族もしっかり作っているし、子供もいる*2。私も弟も、給与は同世代の平均よりも多くもらっている。それぞれ苦労も不満もあるだろうが、みな、それなりに幸せな人生を送っているように見える*3。いまの日本では、学歴は個人の人生や幸せをそこまで大きく左右しない。それが私の実感だ。


もちろん、大企業に入社したり、そこでの出世レースに勝利するためには、学歴は大きな武器になる。しかし、大企業や出世、そこで得られる高収入や社会的ステータスだけが、人生の目標や幸せではない。

もし、学歴が個人の幸せを大きく左右するとしたら、いわゆる「学歴信仰」や「レールに乗った人生」的な人生観を強く内面化し、子供の頃からそうした人生を歩むための努力を惜しまず、しかしそのうえで望んでいたような高学歴や、それを元手にした社会的地位や報酬を得られない人生を歩んでしまったというケースだけではないだろうか。


私は高卒なので、就職活動のとき大企業はハナから眼中になく応募することすらしなかったが、結果的に小さくても自分の適性や技能に合った満足いく会社に就職することができたし、その後の転職も非常にうまくいった。

しかしこれは、私自身が高学歴にも大企業での出世にもステータスにもたいして意味を見出さない価値観を持っているゆえに、こうした「こじんまりとした」人生に不満を感じないという部分が大きいのだと思う。もし私が、大企業で出世することを人生の目標とし、そのことに大きな価値を置くような人生観を持つ人間だったなら、このような「最低の」人生を歩むことになってしまった自身の不甲斐なさに絶望してしまっていたかも知れない。


そんな人生観を持つ私から見れば、「子供を大学にも行かせられない親=不幸と貧困を再生産する無責任な親」とでも言いたげなブコメ群には、強い違和感を覚える。低学歴=不幸という決めつけは、高学歴でなければ幸福ではないという『呪い』を子どもに植え付ける、非常に狭量な考えではないだろうか。

このような『呪い』にかかってしまった人間は、何らかのアクシデントにより「レールから外れた」人生を送ることになってしまったとき、とても危うい。本当に親が子供に伝えるべきはこのような危険な人生観ではなく、世間的価値観では「失敗」と見なされるような人生を歩むことになってしまったとき、自らの価値観で独自の幸せを再定義し、新しい道を歩んでいけるような柔軟な『強さ』ではないかと私は思う。


90年代『自分らしさ』的個性尊重主義は、いまこそ再評価されるべき

…と、ここまで書いたところでふと気付いたのだが、私の幸福観は「世間体」の要素が一般的な日本人のそれと比べ、極端に低いように思う。私の幸福は私が決める。世間でどんなに価値があると言われているものでも、私にとって価値がないものは価値がない。そんな人生観を、私は持っている。


この私の人生観は、母親譲りなのだと思う。母は相当に強固な個人主義者で、「なにごとも無思考に世間に迎合するのではなく、自分で考えて、自分の意思で行動しなさい」が口癖の人だった。これは、地方山間部農村共同体の狭苦しいしきたりの中で苦労して育った母が、「自分らしさ」という言葉に代表される90年代の個性尊重主義や個人主義に理想を見い出したゆえの反動的思想だったのだといまにしてみれば思うが、この教えが私たち兄弟に与えた影響は大きかった。

結果として、私も弟も「協調性は皆無だが、自分でコレだと思ったものにはもの凄いパワーを発揮する」タイプに成長し、協調性のなさゆえ学校に馴染めず不登校になるなど紆余曲折もあったものの、私はプログラミングの分野で、弟は自動車産業の分野で、それぞれ「天職」といえる職業に就き、これについて私達は本当に母に感謝している。


90年代に流行した個性尊重主義は、当時の経済的豊かさの上にあぐらをかいたお花畑思想だと今となっては揶揄の対象となることも多いが、日本が経済的に退潮することが避けられない情勢の昨今、世間的価値観とは違った独自の幸せな人生を生きるための思想として、再評価されるべき部分もあるのではないかと思う。

そもそも90年代の個性尊重主義が、その前の時代に社会的ステータスや物質的繁栄を際限なく追い求めた日本人が、それに替わる新しい幸せの形を模索した時代の産物なのだから、物質的繁栄が退潮した時代の新しい幸福の指標としてこの思想が「使える」のは当然のことなのである。


↓つづく
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*1:こちらも何人かいる。

*2:私だけは、他の従兄弟/兄弟と違い結婚していないが。

*3:もちろん、私自身も含めて。